ヌプンケシ171号

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市史編さんニュース NO.171
 タイトルヌプンケシ
平成21年7月15日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(5)

◇法学部の講座でも、不満は募る一方
 前号で書いたとおり、明治大学予科政治経済科の学生達は不満を鬱積したまま、大正9年(1920)4月、大学令最初の大学生として大学部に進み、政治経済学部が設置されなかったので、法学部と商学部に分属させられました。しかし、その法学部でも講座に問題がありました。
 政治学科の必修科目に憲法があり、その担当がロンドン大学で学位を得た気鋭の政治学者、当時、犬養毅の立憲国民党代議士でもあった植原悦二郎で、比較憲法を講義していました。この講座は他講座の学生が聴講にくるほど人気があり、いつも満員で、質問もできない状態で、政治学科だけで受講できる教室を要求する声が出てきました。加えて、社会学も必修科目の一つだったのですが、経済学が専門の教授が講義している状態で、学生が理解できるような講義は出来ませんでした。そこで、必修科目である以上、社会学専門家による講座の開設が要求されました。大学当局は、大学令にある形式要件を備えることばかり考えて、講座の実質的な整備に対する配慮に全く欠けていたのです。
◇高橋義臣の抗議行動と反響
 政治学科の学生達の不満が圧力となり、高橋義臣に抗議行動をとらせることとなりました。 「こうした中で、い良いよ大正九年の秋となり、『予科時代からもう二年近くも大学当局に色々と要求しているが、大学は一体何をしているんだ』、という声がクラス中で高まってきました。
 僕は予科時代に引き継いでクラス委員であり、またこの時期には雄弁会の幹事長でもあったが、これまで大学当局と交渉してきた責任者として、クラスの連中に経緯を詳しく説明した。そして十一月三〇日には、かなりの長文となったが、それをまとめて大学の正門入口の広場に掲示した。大学当局を直接批判したり、過激な表現は一切使用しなかった。僕としては、ただ大学当局がこれまでとってきた姿勢をみんなに知ってもらえばよかったからです。しかし、これが檄文として響いたわけです。まず、『大学はけしからん』ということで雄弁会の学生が立ちあがると、これに呼応して、直ぐに一〇〇名前後だったと思いますが、政治学科とか予科政科の学生が集まりました。そのくらい不満がうっ積していたのですね。
 翌十二月一日には、早くも大学の記念館に政治学科の学生や予科政科の学生が集って学生大会が開かれ、僕が議長をつとめた。商学部の学生は声援を送ってくれるものもあったが、教室もちがうし、自分たちの問題ではないという意識がつよかったようだ。僕らは論議の末、大学の改革と木下学長、田島学監の勇退を決議し、決議文を大学当局にとどけ、回答を求めたんです。」(以上、『明治大学史紀要』第2号より)
◇大学当局の対応
 『明治大学百年史』第三巻によれば、最初に学生大会が開催されたのは、高橋の記憶とは違う11月30日で、その時の大学側の反応は次のとおりです。
 「木下学長は早速学生側の委員に会って『懇諭』し、この学生大会が『無規律且不穏当』なものであることを説いたが、学生側はその言を聞かず、十二月一日ふたたび大会を開き、初志貫徹を決議した。当局はこれに対して、即日中心学生八名を『放校処分』に付した。この処分は、事態を一般学生に拡大する結果を生んだ。演説会が開かれ、当局の処置を非難し、ついには『各自授業を休むの状』(同盟休校状態)に立ち至ったのである。これに対して当局は、『教授会に諮り六日より十一日迄臨時休業』を決定したのだった。」
 「放校処分」されたのは、次の8名でした。「政治科1年 高橋義臣・末木彰・種田清貴/政治経済専門部2年 白幡成知/予科2年 薮谷勤・村田晋一/政治科予科2年 杉町八重充/法科3年 長船義能」ここで、杉町の名が出てきました。学年から逆算すると、杉町は高橋に一年遅れて、大正8年(1919)に明治大学予科に入学していたことになります。その後、杉町が法学部に入学したのは「大正10年」となりますから、間違いの多い『米国初期の日本語新聞』の関口論文でも、学部は間違っていますが、その入学年だけは正しかったことになります。
植原氏、笹川氏写真 12月10日には雄弁会の責任者で学生側に同情的だった植原悦二郎と予科長笹川種郎(臨風)が何の予告も説明もなく解職を通告されて、両名とも別に大学を辞しても生活に困るわけではないと受諾、大学はすぐに両名の解職を文部省に報告、了承を得ました。右の写真は、大正9年12月11日付『東京朝日新聞』に掲載された記事のもので、植原は苦笑しているようです。
 この事に激昂した学生達は放校処分取消しと両教授の復職を大学当局に迫る大騒動になり、その年を越しました。
 その間、大学OBなど校友会有力者の調停もあって、大正10年(1921)1月末までに放校された学生達の処分は取消され、両教授も復職ということになり、そのかわり学生側も木下学長・田島学監の辞任要求を引っ込め、この事件は一応の決着がついたように見えました。
◇文部省、植原の復職認めず
 大学当局は、大正10年1月29日付で植原・笹川両名の復職認可申請を文部省に提出しましたが、4月28日に認可されたのは笹川だけでした。文部省は、植原を忌避した理由を示しませんでした。認可された笹川も「俺だけ復職するのはいやだ。」と、復職を辞退しました。
 この植原が忌避され背景を、『明治大学百年史』第三巻は慎重に次のように記しています。 「当時は原敬内閣の時代で、これは米騒動(大正七年八月)で寺内内閣が退いた後を受けた内閣である。閣僚全員が絶対多数を誇る政友会員という政党内閣であったが、社会運動に対する態度はきびしかった。(後略)/植原悦二郎は当時犬養毅(木堂)率いる国民党の代議士であった。つまり与党政友会に対する野党の人物であった。割合リベラルな思想の持ち主で、弁も立ったらしい。学生の人気は上々で、彼の教室はいつも満員の盛況だったらしい。その植原が復職不認可とされた理由を文書史料を以って明示することはできないが(この種のことは文書史料には残されないのが通例である)、思想的かつ政治的な問題が後景にある、といった程度のことは指摘しても良いであろう。」誠に歯切れの悪い記述です。
 他の資料を見ると当時の明治大学は政友会系の大学といわれていたそうで、その大学を野党の現職議員で、雄弁会の会長でもあった植原が同会の学生達を扇動して乗っ取ろうとしている、と与党、文部省、学長達から植原は危険人物視されたようです。このように事件は明治大学内だけではなく、政界も巻き込んだ大騒動になってしまいました。(続く)
《中庭だより》☆色々な機関や個人から、野付牛や北見の古い市街地図の問合せがよくあるの
ですが、当室には平成13年度に市史編さん事業が再開後に収集したものしかないので、ご要望
にそえる地図が中々ありません。読者で所蔵している方がいたら、ぜひ複写させてください。
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