ヌプンケシ172号

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市史編さんニュース NO.172
 タイトルヌプンケシ
平成21年8月1日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(6)明大生写真
                          
◇学生側は文部省へ抗議デモ      
 植原の復職について学生側が大学当局を追及しても「文部省が認可しないんだ」というだけで一向に事態が進展しないので、文部省に抗議しようということになり、大正10年(1921)5月13日には前日の学生大会の決議文を携えて代表が文部省に出かけました。
 5月16日には、明大全校学生大会を開催し、「一、吾人は元本学教授植原悦二郎氏の復職を熱望す/二、文部省は速に私学に対する不当なる圧迫を排除し併せて大学の権威を尊重し学の独立自由を保証すべし」と決議後、警察から「今日の示威行動は罷りならん」と警告されたのに、実行委員の方は「自由に文部省へ行ってください」と指示し、「かくて零時五分約二千名の学生は校歌を合唱しつつ駿河台を下り神保町通りから一ツ橋に出て多数警官に衛られ 零時半文部省正門前に押寄せ、委員等の制止も甲斐なく 一同は正門を突破し見る間に大玄関前に流れ込み校歌を合唱し明大万歳を三唱した上高橋外六名の委員を選んで大臣に会見を申込んだ。」
 当時明治大学には約7千人の学生が在学していたそうですから、ざっと3割近い学生が抗議デモに参加した計算になります。文部省へ到着後も学生達の数は増えていきました。この時、大臣は不在で、次官が対応しましたが話は進まず、3度にわたる交渉の結果「今直ぐ学校当局を呼ぶ訳に行かぬが一両日中には必ず学校当事者を呼んで相談した上回答する」との声明を得て、学生達は文部省から引揚げました。(以上、大正10年5月17日付『東京朝日新聞』より) 高橋義臣らが運動全体を指導できたのも、この頃までであったとのことです。
◇学生達を結束させた明治大学校歌
 『明治大学百年史』第三巻によると、この『植原・笹川事件』と時を同じくして、大正9年、スポーツ競技応援のために、学生達の発案で児玉花外の作歌(加筆・西条八十)、当時新進気鋭の山田耕作が作曲した校歌『白雲なびく駿河台』が制定され、同年10月に開催された日本漕艇協会主催の第1回対抗レース(関東インターカレッジ・レガッタ)の応援で公式に歌われました。それから前項引用のとおり、学生達は集会やデモなど、ことあるごとにこの校歌を歌いました。 「学校側にとって、校歌は学生たちを結束させる忌々しい象徴にしか思えなかったのだろう。この歴史的な出来事を、耕作は鮮明に記憶していた。
 校歌ができて一ヵ月も経ったと思う。明治大学にストライキが勃発した。すると私の家に職員の一人から電話があった。『あなたの作られた校歌で吾々は殺されそうです。何とか鎮める方法はないでしょうか』と言うのである。私は返す言葉に窮した。然し心中密かに思った。 それだけの威力を持った校歌を書き得たとなれば(略)、そうだ、それでいいのだ。」 山田耕作が作曲した校歌は学生達に愛され、元気づけ、運動に結束させたのです。
◇都下私立大学連合大演説大会
 5月16日文部省から引揚げ後、実行委員は手分けして各政党を訪問すると共に、世論を喚起するために、5月18日に明治大学雄弁会が主催して大学記念館で都下の私立大学の雄弁会を集めて、私立大学連合大演説会を開催することとしました。
 大学側は記念館を使用禁止にする等の妨害をしましたが、当日実行委員達は実力で会場を占領、慶応を除いた7大学30余名の弁士が「私学の独立と学問の自由」について熱弁をふるい、第2会場を用意するほど舞台や廊下にあふれた2千名以上の学生達から大喝采を浴びました。
 この大会に参加した他大学の弁士は「私学の権威維持の為 明大学生が今日まで健闘されたことは 同じ私学の徒として吾人は衷心感謝を表せねばならぬ。今後も同じ目的に向って 吾々は飽く迄提携しよう」と連帯を表明したそうです。
 大会では、大会名を以って文部省に対し、次の決議文が採択されました。「一、文部省は学究の自由を尊重し私学の権威を保証すべし/二、文部省は元明治大学教授植原悦二郎氏復職申請に対して速やかにその責任を完うすべし」(以上、大正10年5月19日付『東京朝日新聞』より)
◇大学当局、文部省へ植原との交渉経過報告
 明治大学当局は、文部省から植原悦二郎と大学間の交渉経過を報告するように指示され、学長木下友三郎は大正10年(1921)5月19日に文部次官南弘に答申書を提出しました。「その趣旨は"植原への認可が下りなくては授業に支障を来すことになる。そこで別人を後任に委嘱することにした(ただし認可申請はそのまま)。従って『授業関係ノ事実ニ於テ』は本学と植村とは『目下何等ノ交渉』はない(関係なし)"。これに対する文部省側の返答は"植原と貴学との関係はなくなったそうだが、それならば認可の必要はないわけだ。従って申請に対しては返事しないことにする"というものであった。」(以上『明治大学百年史』第三巻より)
 つまり、大学の方は新学期になっても文部省から何の動きもないし、必修科目を休講できないので後任を決めた、植原とは何も交渉していない、と報告したということです。これに対して文部省側は、後任が決まり、植原と大学と関係がないのであれば、今更当省が申請に対して指令する必要もあるまいと回答しました。そのことは翌日の新聞に発表され、文部省は関係者との絶縁を宣言して責任を逃れ、傍観者を決込んで事態収拾を大学当局任せにしました。
◇明治大学全学ストライキへ
 5月22日、学生達は学校当局問責演説会を開催、「△過去半才に亙り此問題の為め学生の方途を惑はし今回の如き紛擾を惹起したのは瞭かに学校当局の失態である 是に対する意見如何△青年会館に於ける立会演説に学校側は出席せぬとの意思なりと 事実如何△植原笹川両教授に慰謝料贈与の顛末に就き田島学監 弁明を求む△当局は両教授の復職を申請し乍ら一方には後任者を決定して講義せしむるは無誠意である」等11か条の問責案を決め、23日正午までに回答がなければ、同盟休校(全学ストライキ)するとして、その決議を木下学長に突付けました。
 当然大学側から回答はなく、5月24日、早朝4時半から学生側は大学を占拠して、全学ストライキを決行、学生は入れるが教授は一人も入門させない事態になりました。出勤してきた田島学監は、警察の出動を要請しましたが、西神田署は「大学は一自治国に等しい 無暗に干渉すべきでない」と拒否、再三の哀願に形式的に2回警官隊を派遣したものの、すぐ引揚げたそうです。この騒動に興奮した木下学長は辞職の意思は無く、秩序回復のために首謀者を警察に頼んで検挙させると取材記者に発言する等、強硬な姿勢を崩そうとはしませんでした。(以上、大正10年5月22日付と5月25日付『東京朝日新聞』より)(続く)
《中庭だより》☆当市初代教育長(昭和27〜43年)で平成16年に逝去された福光良橘氏の奥様=福光ヤス様より、6月21日、北見工業短期大学誘致の陳情書等の資料が当室に寄託され、7月整理が完了しました。開学までの経過が辿れる、貴重な資料の提供に大変喜んでおります。
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