ヌプンケシ174号

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市史編さんニュース NO.174
 タイトルヌプンケシ
平成21年9月1日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(8)
                          
◇警察は学生側に寛容      
 筆者が事件当時の新聞記事を見てきて、警察が学生達にすごく寛容なのが印象的でした。
 大正10年(1921)5月30日の明治大学授業再開「当日警官隊の指揮に任じて居た西神田署の佐藤警部は語る『自分が実際に見た所でも巡査中に二階から突落された者もあり負傷した者もある、学生中には興奮してる者が多かった 併し之等学生を直ぐ處分することは考へ物である、事件の性質其他を学校当局とも協力調査の上で処分すべきは処分する方針である、従つて処分の程度時期等は今云う事は出来ないが 警察の方では暴行者の氏名は判つて居る」(大正10年5月31日付『東京朝日新聞』〈夕刊〉より)
 同じく大正10年5月31日付『東京朝日新聞』には、「謝罪に免じて/平穏に訓戒」との見出しで次の記事がありました。「明大の大乱闘に西神田署の高村栄太郎外数名の警官が負傷したに付き竹内西神田署署長曰く『学校の騒擬は干渉の限りでないが警戒の警官を乱されては警察権の威信にもかかはる 学生の興奮が鎮まつた上で相当の処分する、今夕学生二名の代表者が見舞金迄持つて来て謝罪した、受取りはしなかつたが よし加害者を検挙してもできる事なら将来を訓戒する位に止めて置き度い』」
◇米騒動と警察
 
学生達の運動が民衆から支持され、政府=文部省が不干渉を表明していたにしても、何故、これほど警察が大学生側に寛容であったか疑問になったので、岩波新書の大日方純夫著『警察の社会史』を読んだところ、次のような背景があったことが分りました。
 それによると、日露戦争後の明治38年(1905)、東京市の八割の警察署が民衆に襲撃された日比谷焼き討ち事件が起き、この事件に衝撃をうけた警察官僚はそれまでの高圧的な警察の民衆対応を見直し、大正期になって「警察の民衆化」(警察が積極的に民衆のなかに出ていくこと)と、「民衆の警察化」(民衆が治安維持に積極的にかかわること)を強力に推進したそうです。
 しかし、「いかに『警察の民衆化』と『民衆の警察化』が成功したとしても、肝心の現場警察官に動揺があれば、『画に描いた餅』になりかねない。だがこの頃、その懸念が現実化しかねない状況が生まれていた。/米騒動(大正7年=1918年−引用者)の原因になった米価の高騰は、俸給生活者である巡査の生活をも直撃した。」当時の警察官の「腹一杯食おうということは分外の望みだ」「吾々の一家は三度の食もろくろく味わっておらぬ」「とても暴徒を取り押さえる気にはなれなかった。正直なところ、自分等も米屋の暴虐には怒っていたのだから、もっとヤレヤレと思っていたし、後ろから手かしてやりたい気持ちさえした」といった声が記録されています。更に大阪西警察署では待遇改善を要求してストライキのような状況が生まれ、大正8年には各地で賃上げ要求がたかまり、抗議の欠勤者が続出したそうです。
 「ついに二〇年(大正9年−引用者)八月、政府は巡査給与令をあらため、約二倍近い増額を行なう。この結果、警察官の待遇は改善されたが、警察官の『労働者化』をおそれる政府は、あわせて精神的統制を強めていく。」
 「皇室中心・国家本位の心がけさえ忘れなければ、たとえ法規や手続きに多少問題があっても大きな失敗にはいたらない」、「日本の警察官は国家の官吏である。」「国民のサーバントではない。」といった当時の警察幹部達の文章、発言にあるとおり「デモクラシー状況に対応して、一方で待遇改善を行なうと同時に、一方で『陛下の警察官』という精神的統制がはかられたのであった。警察と民衆の接近がはかられたことと併行して、警察官の職業倫理は逆に天皇へむけてまとめあげられていくのである。」(以上の引用は『警察の社会史』より)
 このように警察が転換期にあった時期に、このいわゆる「植原・笹川事件」が起きたわけで、まだ精神的統制が徹底せず、警察内に学生側に同情的な部分が残っていたのかもしれません。
 しかし、その後は政治運動・労働運動が活発化するに従って、小林多喜二の拷問虐殺が象徴するような、「非国民」を躊躇なく弾圧する「陛下の警察官」に純化されていきました。
◇「植原・笹川事件」その後
  話を元に戻しましょう。高橋義臣はその後のことを次のように語っています。
  学生側に様々な考えのグループができ統一した行動が取れなくなった状態で「五月三〇日には警察が導入され、負傷者まででる始末になってしまったのです。/このあと、直ちに木下、掛下、鵜沢、田島の四理事が責任を取って辞任しております。また植原・笹川両先生共に復職の意志がありませんし、学生の責任者としてすでに僕らが退学処分になっているということで、問題は何も解決されないまま、騒動は喧嘩両成敗のような形であっさり終焉したのです。」
 「騒動後、僕は植原先生の助言やら、一緒に放校となった杉町八重充君、峯田茂吉君の誘いをうけて、渡米することを決意しました。『弁論は自由な環境の中で勉強しなければ駄目だ』と考え、その夢の実現をアメリカに求めたのです。/一〇月一〇日、ワシントン会議に衆議院議員として出席する植原先生とアラバマ丸に乗船し、シアトルまで同行、植原先生の母校ワシントン大学人文学部政治学科に入学することになりました。入学のために必要な書類がありましたが、明治大学は放校処分をうけた僕にそれを送ってくれました。/そして十一年間のアメリカ留学生活を終って帰国しました。」(以上、『明治大学史紀要』第2号より)
◇杉町のアメリカ留学は一種の亡命?
 杉町は大正10年5月24日に放校処分をうけて、5月30日に授業再開に反対して検束され、同日釈放、6月7日には釧路で徴兵検査を受け乙種合格となり、8月には補充兵役に編入されています。これらを見ると、杉町の放校処分から徴兵検査まで、余りにも短期間に実施されて、何か政治的な動きがあったような気がします。実際、徴兵が一種の刑罰として機能していた点もあるようですから、それから逃れるには留学しかなかったのでしょう。その際に、杉町は恩師植村悦二郎が学んだと同じ、米国から英国へという留学コースを考えたのでしょう。
 しかも、その頃はシベリアに出兵していましたから、後述する黒島伝治と同様に杉町も新兵訓練後、戦場に動員される可能性があったのです。因みにシベリア出兵とは、革命直後のロシアに対する干渉戦争で、最初はシベリアに孤立したチェコ軍救援を名目に大正7年(1918)8月にアメリカ・イギリス・フランス等とあわせて日本も派兵。しかし、シベリアを自国の勢力圏に取込む野望を持った日本は各国と取決めた1万2千を大幅に上回る7万2千人の軍隊を送込み、バイカル湖以東から北樺太までを制圧しました。大正9年(1920)1月にはアメリカはじめ各国が救援の目的を達したとして撤兵したのに、日本は居留民保護、革命の波及防止に目的を変更して駐留を継続しましたが、負け戦でシベリアからは大正11年(1922)10月撤退、北樺太からは大正15年(1925)に撤退しました。戦争する大義名分もなく、戦費約10億円を費やし、戦死者3千人余の犠牲者を出し、シベリア出兵は国民から全く支持されませんでした。(続く)

《中庭だより》☆8月17日、市史編さん委員(任期本年8月13日〜平成23年8月12日)の委嘱状が小谷市長から、松岡義和・伊藤公平・扇谷チヱ子・中秀一・水口馨・熊木俊朗・武田賢一郎・伊藤一郎・国澤豊の九氏に交付され、松岡委員長、武田副委員長が互選されました。
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