ヌプンケシ176号

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市史編さんニュース NO.176
 タイトルヌプンケシ
平成21年10月1日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(10)
                          
◇鈴木正吾の「徴兵忌避論」      
 明治大学雄弁会では杉町の先輩で、大正2年(1913)に政治経済学部を卒業した、後に政治家になった鈴木正吾(1890〜1977)が、1963年発行『雄弁部名鑑』に「大正初期の雄弁会」という文を寄せてます。その文によると、彼は連合演説会で『徴兵忌避論』を盛んに唱え、「同じ意見を持つ者達と一緒に僕らは、徴兵忌避同盟を作ろうじゃないか、この問題に関しては陰でこそこそしていては駄目だ、国の問題として再検討の必要が有るんだ、と団体を組みお互いに監獄へ入る気持ちで大いに叫んだ」ために官憲に追い回されたそうです。
 明治大学史資料センターの方に調査をお願いしたのですが、残念ながら鈴木の具体的な演説内容を明らかにする資料はありませんでしたが、大正の初期に学生という特権的な立場にあったにせよ、演説会で公然と「徴兵制」の再検討を求める論が弁じられたことは注目して良いと思います。杉町と鈴木とは8歳の開きがあり、直接の関係は考えられませんが、雄弁会内部でこうした「徴兵忌避」論が代々話題になっていたかもしれません。
◇大正時代の徴兵
 
前掲の『皇軍兵士の日常生活』によれば、当時「成年男子が全て兵士になるのではなかった。加藤陽子『徴兵制と近代日本』が詳細に明らかにしているように、軍隊の定員の関係上、徴兵検査と抽籤によって選抜された一部の者のみを軍隊に入れて三年間の厳格な訓練を施し、除隊後も戦争が起これば召集して軍隊に呼び戻す、その一方で選に漏れた者たちは軍隊とあまり関係を持つことがないという、ある意味では不公平な状態が明治・大正を通じて永くつづいた。」「例えば一九二一(大正一〇)年の徴兵検査受験者が約五五万人であったのに対し、実際に現役入営したのは約一三万六〇〇〇人であった。つまり平時には四人に一人しか軍隊に行かなかったのである。」
 このように大正時代、現役兵になることは全く不運なことだったのです。だから、夏目漱石・志賀直哉等、明治・大正時代の文学者達が、いかに「合法的な兵役逃れ」に苦心したかは、原田敬一著『国民軍の神話』に詳しいので機会があったら読んで見てください。
 一方逮捕された「徴兵忌避」者は、「一月以上一年以下の重禁錮に処し、三円以上の罰金を附加」され、「抽籤の法に依らずして之を徴集す」と必ず兵役に動員され、戦時では死亡率の高い前線に回されるという過酷な処罰が約束されていたのです。ですから、杉町はシアトルの斎藤領事を頼り、徴兵忌避の疑いを晴らすため、懸命に釈明しなければならなかったのです。
◇黒島伝治(くろしま でんじ)の場合
 貧農出身で後に反戦小説を書く黒島伝治は、大正8年(1919)12月1日「姫路の歩兵第一○連隊に入隊し、除隊を目前にしながら、一九二一年にシベリアのウラジオストクに送られ」ました。「黒島伝治は、日記(一九二〇年四月二二日)に『この日記を書くのも、もうこれでやめる』といい、友人の壷井繁治に対し、『生きて帰れるか、帰れないか分らぬ。死んだならば、必ずこの日記を世の中に出してくれ』と書き付けた。黒島は、一九二一年五月に姫路から敦賀、宇品を経由して五月七日にウラジオストク、翌々日にニコライエフスクに着いている。翌年三月に黒島は身体を壊し入院、四月に日本に戻り、兵役免除となるが、この体験をもとに、のちに小説を著わした。」「さきの黒島の日記(一九二〇年四月二二日)には、『兵隊に取られたとき、自分は悲観した』『現在の、日本の制度を呪った。日本の国民たることを、お断りしたくなった。併し、どうしても仕方がないのを知った。/あきらめるまでは苦しい』と記されている。」(以上、成田龍一著『大正デモクラシー/シリーズ日本近現代史4』より)
 黒島は杉町と同じ年の明治31年(1898)12月12日に生まれながら、裕福な家の支援で合法な兵役逃れ=海外留学ができた杉町と違い、大正8年(1919)春に早稲田大学予科の中学校卒でなくても受験できる選科に入学したものの、徴兵猶予がない学科だったために12月には現役入隊せざるをえなかったのです。シベリアの戦場で黒島は「どうして、彼等は雪の上で死ななければならないのか。どうして、ロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出して来なければならなかったか? ロシア人を撃退したところで自分達には何らの利益もありはしないのだ。(小説『橇』1927年)」と自問せざるを得ませんでした。プロレタリア文学運動に関係後、特高警察の監視下、昭和18年(1943)10月17日黒島は44歳で結核のため死亡。彼が軍隊内で密かに書きためた日記は、戦後の昭和30年(1955)壷井の手で『軍隊日記』として刊行されました。
 この黒島と杉町の人生を分けたものが「徴兵制」であり、「徴集延期」でした。しかし、昭和に入り、昭和6年の満州事変を起点に「15年戦争」と言われるとおり、戦争が常態化するにつれて、特に日中戦争以後では甲種・乙種の現役兵動員は当然のこととなり、ついには太平洋戦争が始まって留学も出来ず、昭和18年(1943)の学徒出陣で理工科系・医学系等を除く大学生の「徴集延期」もなくなり、殆んどの男子青年が戦死を覚悟せざるを得ない時代になり、それは敗戦まで続きました。今は徴兵制が無くて良かったですね。もし、徴兵検査から戦死公報までの事を知りたければ、一ノ瀬俊也著『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)を読んでください。
◇大正時代とは?.
  杉町の青春時代と重なる、大正時代は一般的になんとなく平和で、のんびりした時代のような、漠然としたイメージしかありません。これは第一次世界大戦でヨーロッパが戦場になって食糧生産が出来なくなったため、日本中に戦争成金が幅を利かせ、北海道が、野付牛町が雑穀景気で潤った記憶とどこかで繋がっているのかも知れません。まさに他国の不幸で、富を得た時代でした。しかし、一方では第一次世界大戦で開発された大量殺人兵器による現代戦の被害の大きさと悲惨さを国民が十分認識せぬまま、昭和の大戦争を準備したのが、大正時代だったとも言われます。次に思いつくまま、関連する事項をあげてみます。
・台湾、朝鮮の植民地経営の進行と、国民の帝国意識、一等国意識の浸透と差別意識の肥大。
・第一次世界大戦とシベリア出兵、「軍縮」に名を借りた軍の近代化と余剰将校の中学校への配置、満州鉄道を足がかりとする中国への干渉、関東軍の強力化。〜総力戦、教育での軍国主義の徹底、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へ。
・関東大震災〜「自警団」等、民衆を治安維持に動員する動き〜警防団
・民本主義から、無政府主義、社会主義など、思想の多様化とこれに対抗する国粋運動。等々
 杉町は色々な潮流がぶつかりあった大正時代に多感な青春を過ごし、友人2人と共に留学した米国では排日運動や大恐慌、第2次世界大戦と強制収容所を体験しながら、人生を切開いていったのですが、その足跡は残念ながら資料がなくこれ以上詳しくは分りませんので、今後の課題としてこの項を閉じます。筆者はこの連載で、市民が知らない北見ゆかりの人物が世界で活躍していた事実を突付けられ、ますますこれからも視野広く調査しなくてはと思いました。(完)  

《中庭だより》☆9月18日、市民の方が「父親の遺品を整理していたら、市庁舎新築当時の写真アルバム等が出てきた。」と当室へお届けくださいました。筆者も初めて見る貴重な写真類で、大変喜んでおります。このように遺品を廃棄する前に、ご相談頂けると誠に幸いなのですが・・・
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