ヌプンケシ178号

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市史編さんニュース NO.178
 タイトルヌプンケシ
平成21年11月1日発行

◎児玉待合所・洋食・ブラジル移民(1) 平成19年4月20日付『経済の伝書鳩』
                               

 杉町八重充の親族がブラジルに移民したように、戦前多数の野付牛町民が南米に移民しています。今回はその中でも興味深い児玉兼次氏の例を取上げてみましょう。
◇『経済の伝書鳩』の記事に
  読者の皆様は、平成19年(2007)4月20日付『経済の伝書鳩』に、『おばあちゃん 迎えに来たよ』との見出しで「児玉カ子さんの遺骨...家族の待つブラジルへ/ブラジルの医師で日系3世のカルロス・コダマさん(57)が18日、北見市の緑ヶ丘霊園を訪れた。祖母の児玉カ子(かね)さんが独り、墓地に眠っていることが分かったため、家族の待つブラジルに連れて帰ろうとはるばる迎えに来た。」「児玉カ子さんは1929年に亡くなり、独り北見の墓地で眠っていた。カルロスさんの祖父、兼次さんは家族を連れてブラジルに移住。バス会社を経営していた。兼次さんはカ子さんのことをほとんど語らなかったため、カルロスさんは『墓が日本にあるのは知っていたが、北見にあることは知らなかった』という。」記事があったことをご記憶ですか。上はその記事のコピーです。
◇環境課職員の地道な調査で
 
「カ子さんの墓は、兼次さんの姉の孫の山寺健司(正しくは健児−引用者)さん(81)が長年守ってきたが、高齢になり将来を心配して昨年8月、市の担当者に相談した。担当者は、ブラジルに家族がいることを知り、5ヵ月かけてカルロスさんを探し当て、昨年12月に手紙を送った。」
 この記事にあるとおり、当市環境課の霊園管理担当職員が除籍調査やブラジル関係機関に問合せて、カルロス・コダマ氏と連絡が取れたのです。市民の皆様の知らないところで、地道な調査が行なわれ、担当職員は少しでもお墓の主が「無縁仏」にならないように努力しています。筆者もその調査資料から貴重な情報を得ることができ、今回のレポートを書くことにしました。
◇児玉待合所
  筆者は先の『経済の伝書鳩』の記事を読んで、これは「児玉待合所」関係者の遺族に違いないとピンときました。事実、調査資料にあった児玉兼次氏の除籍を見ますと、住所が「野付牛町停車場構内番外地」で、駅構内にあった「児玉待合所」と一致しました。
 この除籍どおりであれば、児玉氏は大正2年(1927)に旭川町(現在の旭川市)から転居してきて、駅で汽車を待つ客用に「児玉待合所」を開いたことになります。大正6年(1917)9月発行の『北見國野付牛要覧』には「野付牛駅前/明玉軒 ○玉児玉待合所」の広告があり、平成13年(2001)発行の『創立100周年記念/北見教会史年表』を見ると「1917(大正6)9・18 ホーリネス教昭和4年『野付牛明細図』会成立満1周年記念伝道会を児玉待合洋館で開く」とありますから、建物が「洋館」であったことがわかります。
 しかし、残念ながら、その写真は未だ見たことがありません。右の地図は、昭和4年の『野付牛明細図』で「市川待合所」に並んで「児玉待合所」があります。
 度々引用する『北見の今昔』に掲載されている古老の話の中にも、北見で成功した人物で転出した一人として「児玉洋食主人」が挙げられていますが、児玉兼次氏と見て間違いないでしょう。野付牛町では、児玉氏は洋食屋の主人として有名であったのです。
◇鈴木三郎先生が遺したメモにも..
  実は『北見市史』の編集委員長であった(故)鈴木三郎先生が遺された資料の中に、この児玉兼次氏の略歴を記したメモがありました。鈴木先生も、児玉兼次氏に興味を持ち、いずれ何かの形で発表しようと準備していたのかも知れません。親族からの聞取りによるらしく、多少疑問のある箇所もありますが、簡略に児玉氏の人生が辿れるので、参考に転載します。

  明治8年(1875)11月12日 香川県高松市塩屋町 父 政尚 母 千代 長男として出生  父 幼少時亡(なお、除籍上では出生は明治10年=1877年11月12日で、母はイワになっています。明治初期の出生届出は親の勝手でしたから、どれが正確かは判断できません。)
明治18年(1885) 大阪市で丁稚奉公/明治30年(1897) 渡道 商業
明治34年(1901) 渡米、苦学/明治38年(1905) 帰国 大島カネと結婚(除籍によれば明治40年=1907年7月18日届出)/渡米 シアトル市 農業 その後 信義・巌 生る
明治41年=1908年帰国(高松?)母病気で野付牛入地(除籍によれば大正2年=1913年1月14日、上川郡旭川町から転籍)食堂と泉町相原に隣接して牧場/サロマ湖砂州 1K×4K購入牧場経営
昭和3年 妻カネ亡(除籍では、昭和4年=1929年7月21日死亡となっています。)
昭和5年(1930)伯父 石原辰雄、二男巌を先発して南米調査し、後/渡伯 サンパウロ市近郊2ヶ所12アルケース(28万立方メートル)買求め帰国/帰国後、海外協会移住組合北見支部長 S12迄900名移民さす
昭和7年(1932)水木キヨ結婚(除籍によれば、同年5月3日)
昭和12年(1937)一家して渡伯 サンパウロ市近郊 モヂダス クルゼース市に22万立方メートル/後スザノ市パルメーラ 定住
昭和15年(1940) オニブス(バス)会社経営 スザノ市—リベロンピレス市—サンパウロ市—サントス市経由線
昭和27年(1952)訪日/昭和31年(1956)2月 脳溢血で半身不随/昭和32年(1957)3月14日亡/スザノ市 カネジ・コダマ街の命名あり
  今見ただけでも、児玉氏が波乱万丈の人生を歩んできた人物であることが分かります。
  この鈴木先生のメモによれば、児玉氏は2度もアメリカに渡っています。最初はアメリカに移住することを希望していたのでしょうが、日本からの移民を締め出す排日運動の激化で断念したのでしょう。洋食の調理は、その在米中に身の付けたものと考えられます。筆者は、児玉氏が当市で最初に洋食店を開いた人物、と推測しています。牧場も経営し、直営で肉が供給できるようにしたのですから、児玉氏の「明玉軒」はそれなりの洋食店であったと思われます。(続)
《中庭だより》☆新資料を見つけて現在筆者は杉町八重充の史稿を執筆中ですが、当然アメリカ現代史における主流のWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)からはじまる移民史、排日運動、日系人の歴史も勉強、勉強です。知識不足で大変苦労しています。(ため息)
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