ヌプンケシ179号

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市史編さんニュース NO.179
 タイトルヌプンケシ
平成21年11月15日発行

◎児玉待合所・洋食・ブラジル移民(2)        
大正12年版『野付牛総覧』の広告に掲載された会陽軒◇明玉軒と会陽軒                       
 『北見市史』下巻に「会陽館は大正十五年六月山寺捨造を理事長として創立された。山寺捨造は福島県会津若松市の出身で明治二十六年五月、屯田歩兵第五中隊の屯田戸主として当麻へ入地した。現役解除後旭川に出て七師団の御用商人となった。大正六年野付牛へ来町、駅前の児玉食堂に勤めここで西洋料理の技術を取得した。大正十二年頃一条西一丁目の区画割地を買収して会陽軒という西洋料理兼撞球場を経営した。市街地の発展を予想して更に区画割地を買収し、市街地商店に呼びかけて廉売場創設を計った結果、大正十五年創設となった。当時一般には会陽館廉売と呼ばれ、新しい寄合商法に注目されて繁昌した。」とあります。
 この情報から会陽館(後の丸正デパート)の創設者山寺捨造氏(明治2年=1869年5月2日生〜昭和35年=1960年4月4日没)は、児玉兼次氏の食堂で西洋料理の技術を学んだことが分かります。山寺氏は旭川で児玉兼次氏の姉、イチさん(明治5年=1872年5月12日生〜昭和5年=1930年7月5日没)と明治37年(1904)4月28日に結婚しましたから、児玉氏とは義理の兄弟でした。先に野付牛で食堂「明玉軒」を営業していた義弟の兼次氏から、仕事のノウハウを学んで、当時流行した撞球(ビリヤード)も取り入れたモダンな店を開店したのでしょう。上に提示した会陽軒の写真は、大正12年(1923)版『野付牛総覧』の広告に掲載されたものです。場所は北1条西1丁目、現在の元丸正デパートの所です。「洋食」と「生そば」の看板が並んでいるのも、当時の町民の嗜好がうかがえます。
◇児玉待合所はいつまで営業していたか?
  ところで、この明玉軒・児玉待合所はいつまで営業していたのでしょうか。前号の『野付牛明細図』が昭和8年12月発行の『大日本職業別明細図』発行された昭和4年(1929)には存在していたことは間違いありません。次に続く地図は昭和8年(1933)12月発行の『大日本職業明細図』で、それを見ると待合所は消えて、市川旅館が前面に出てきていますから、児玉待合所はその以前に廃業していたことになります。
  前号の鈴木先生のメモで考えると、昭和4年(1929)に先妻を亡くし、多分それが転機になって、再度兼次氏は海外移住計画を考えるようになり、昭和5年(1930)に伯父と次男が先発して南米を調査し、つづいて本人もブラジルに赴き、土地を買収しているようですから、その前後に店を閉め、財産を処分したと思われます。しかも、昭和7年には再婚し、住所も一時相内村に移していますから、昭和5年頃に廃業したのは確実と見て良いと思われます。しかし何れにしても、もう少し新たな資料なり、情報がないと正確な廃業時期は確定出来ません。どなたかご存じでしたら、当方にお知らせください。
◇海外移住組合
 
鈴木先生のメモによれば、兼次氏は、ブラジルから帰国後、「海外協会移住組合北見支部長」になったとありますが、この「海外協会移住組合」は「海外移住組合」の間違いでしょう。インターネットの情報によれば、「海外移民を助成する目的で組織される組合に関する法律」である「海外移住組合法」が昭和2年に制定され、これにより「海外移住組合に加入する組合員および同一の家に在る者は、組合から海外移住に必要な資金の貸付を受け、そのために必要な貯金の便宜を受け、また組合が取得し、または借受けた土地・建物その他の物件の譲渡または利用を受けることが出来た。」、「組合は、通常、道府県を1区域として、共同して目的を達するため連合会を設けることができ、その組織監督その他をこの法律で規定された。」
 兼次氏は北海道の海外移住組合の「北見支部長」として、ご本人一家が移住する昭和12年(1937)までに900人を移住させているとのことです。北見市になったのは昭和17年ですから、この「北見支部」も「北見國」のことか、「野付牛町」の間違いか、資料がなく判断できません。
 ご一家の移住が昭和12年になったのは、実母「イワ」さんが昭和11年2月23日に死去していますから、多分その最期を看取ったためと思われます。
◇ブラジル移住後の児玉兼次氏
  ブラジル移住後の児玉兼次氏についての情報は、現在、鈴木先生のメモ以上のものはありません。バス会社を経営していたことは、『経済の伝書鳩』の記事からも間違いないと思います。
 後はインターネットを見ると、ブラジルのスザノ市南部の農業地域Vila Ipelandia地区にある日系移住地「福博村」の恩人の一人として、児玉兼次氏が次のように紹介されています。
 「児玉兼次氏/原始林の茂るたたずまいに魅せられて、1936年入植。北米での生活を身につけていた氏は、理想主義的心情を常に持ち、1952年、村の青年達と意気投合して、1アルケールの土地を無償提供、現在の青年会館のある広場を作ることに協力した。自らも林に囲まれた劇場を建て、情操教育を中心とした日語学校を開くなど、村の文化運動に尽くした。/1955年には、日語学校の敷地寄贈されるなど、1957年3月13日、八十二歳で逝去するまで、美しい村を造る事への夢を最後まで持ち続けた。」
 入植年、ご逝去された日など、当方の記録と違う点は多々ありますが、兼次氏が人生の最後まで前向きに生きていたことが、この紹介文からも読み取ることができます。
 また『サンパウロ新聞』の福博村紹介記事の中に、「現在の会館の土地は一九五二年、戦前にアメリカから再移住していた故・児玉兼次氏が当時の青年会に寄贈したものだが、児玉氏は当初、原始林が広がっていた同地に『ブラジルで最も美しい所にすべく、自然公園をつくりたい』との壮大な理想を抱いていたという。しかし、その頃原始林に火が入り大半が枯れてしまい、結局残っているのは現在の数本だけになっている。/会館は五八年に落成されたが、児玉氏は当時の青年会館が竣工される前に他界。大浦氏(当時の青年会相談役−引用者)はその時の児玉氏への追悼文の中で『せめて、新しい会館を見ていただきたかった』と、青年会の活動に惜しみない協力を行った氏の死を惜しんだという」文章がありました。ブラジル現地では兼次氏は北海道から移住したのではなく、「アメリカから再移住」と伝えられているようです。スザノ市にブラジルで最も美しい「自然公園」を造りたいという兼次氏の壮大な夢には、昭和9年(1934)12月阿寒が国立公園に指定された記憶の影響があったのかも知れません。
 今後とも児玉兼次氏については資料収集を続行しますので、ご協力をお願いします。(終)

《中庭だより》☆先日、私用で釧路市へ行き、ついでに図書館で『釧路新聞』のマイクロ・フィルムを閲覧、馬場酒造店も参加した根室での第3回東北海道酒造組合清酒品評会の開催日が「昭和6年9月13日」と判明しました。これでまた一つ不明な点が明らかになりました。(喜)
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