ヌプンケシ191号

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市史編さんニュース NO.191
 タイトルヌプンケシ
平成22年5月15日発行

◎きたみ写真ことはじめ(1)
 前号まで邨瀬 汎(むらせ ひろし)氏が趣味にしていた写真などについて、レポートしてきましたので、今号は野付牛での写真事始について少しまとめてみたいと思います。
◇「十勝釧路行軍」写真
 下の写真は、昭和54年(1979)10月発行の遠田恭行編・ふるさとの思い出写真集『明治/大正/昭和/北見』の巻頭にある写真で、その説明には「明治三五年(1902−引用者)一〇月、屯田歩兵第四大隊の中から選抜編成した一個中隊が、十勝・釧路に行軍した際、十勝太付近にて写したもの。」とあります。これが野付牛開拓初期に、記録として遺された写真の一枚です。
明治三五年一〇月十勝釧路行軍写真 後掲の昭和57年(1982)8月発行の『全北見写真師会創立20周年記念誌』に寄れば、この写真を撮ったのは帯広の写真師と言われているそうです。
 屯田兵が野付牛に入地したのは明治30年(1897)で、当時の野付牛村は全然経済基盤も整っていなかったのですから、写真を商売とする人間がいなかったのは当然でした。ちなみに、明治32年に網走の「北見町南通」に開業した吉田登一が、オホーツク圏内で最初の写真師だったと思われます。

◇『池田七郎回顧録』では・・・

 屯田兵出身で議会の長老で、郷土史研究家でもあった池田七郎氏が新聞『家庭北見』に連載していた『池田七郎回顧録』、昭和29年(1954)4月15日付けの記事で、野付牛での写真屋の始まりを次のように書いています。
 「写真屋は毎年根室から吉田久二という写真屋さんが秋のお祭りには必ず出張して来ていた。三十六年三月に屯田隊が解隊となってから兵村二区の竹本伊三郎が写真術を習って写真師となったが、店舗を構えなかったらしく、いつとはなし廃業してしまった。
 次に四十二年十月十四日網走から吉田登世氏が移転して、今の仁頃道路の出口辺に(南側)店舗を構え開業したが、正式にはこれがはじまりである。」
 根室からわざわざ吉田久二という写真師が野付牛の秋のお祭りに来た、というのは今では何か奇異に感じるかも知れませんが、明治初期にはこのオホーツク圏は根室出張開拓使庁の管轄下にあり、明治15年(1882)にはそれを廃して根室県が置かれるなど、根室は行政の中心で、人口も明治31年(1898)12月31日現在で根室郡・花咲郡合計24,418人の経済活動も活発な地域だったのです。しかも、明治30年5月には屯田歩兵第四大隊本部も根室の和田村から中野付牛に移駐してきており、根室と野付牛は交流があったのです。
 屯田兵の竹本伊三郎については、大正5年6月発行の『北見國中野付牛兵村/屯田兵記念帖』に、「現住所 常呂郡野付牛村/歩兵一等卒勲八等 竹本伊三郎君/君は石川県石川郡柏野村の人 明治六年一月十日出生とす、三十年六月十日家族九名と共に移住 屯田に入隊す 三十五年一月十九日一等卒被申付 三十七年八月十一日充員召集に転じ 昌斗嶺、會寧付近の戦闘に参加し占領後凱旋す 功により勲八等瑞宝章金八十円並びに従軍記章下賜」とあることしか情報がありません。住んでいた兵屋は現在の駅南辺りでしたから、駅の設置で移転対象になっていたわけで、下賜金80円を元手に写真師を始めたのでしょうか。
◇『全北見写真師会創立20周年記念誌』では・・・

 『全北見写真師会創立20周年記念誌』に、当時の写真業界の長老で、同記念誌編纂委員長=阿部 一氏が多分書いたと思われる「北見地方の写真の創始」という次の文章があります。
 「蝦夷地の奥深いこの北見地方に、最初に訪れた写真師は誰なのか定かではない。
  明治30年屯田兵の入植により、原始の地は開拓された。古い写真として明治35年10月屯田歩兵第四大隊の十勝、釧路に行軍したときの記録写真が残されているが、これは帯広の写真師によるものといわれている。なお明治末期、大正にかけて三輪という人が管内を部落のお祭り、お盆にと出張撮影に駈け廻っていたが、スタジオのあったことは記録にない。
  明治末期、大正、昭和初期の時代、北見地方は木材とハッカの好況時代が続き、何の商売も盛況であった。成り金の人はお金の置き場に困り、ストーブの円筒の中に隠し外出した。帰ってきて寒いので火を焚き、円筒の中のお金を燃やしてしまったという話や、お礼に火をともして暗がりを照らしたというエピソードも残されている。そんな時代を背景に、網走支庁管内にも各町村に写真を業とする専業、兼業などが多数開業するようになったが、人口の集中しはじめた、網走、野付牛(北見)以外の郡部においては写真の需要が少なく、写真館経営の定着が困難であり、その間、網走、野付牛から出張写真師たちによって人々の要望に応えたといわれている。
  明治末期の大正初期の先人として、次の方々が私の記憶に残っている。

  吉田登四    野付牛町 明治43年
  日の出写真館    〃     明治43年
  三輪          〃     明治43年
佐久間基    置 戸 町  大正2年
加藤勝次郎  野付牛町  大正5年
石山市右ヱ門   〃     大正初期

  吉田登四 網走の吉田登一の弟にして、この地方でかなり広範囲にわたり活躍していた。1条西1丁目より夜店通り(2条西3)に立派に新築し盛業であった。
  佐久間基 当時として夜間撮影は珍しく名声であったらしい。趣味としての猟は名人芸。熊、鹿の大物を多数捕獲している。また町会議員として地域の功労者であった。
  加藤勝次郎 木材、ハッカの好況時代、花街近く3条西4丁目で大正5年開業、商売大繁盛であった。この花街は大商取引の重要な産業発展の役割をはたしていた。
  外山光郎 社交家でなかなかの人気者であった。修整鉛筆の芯を長く出し、耳に挟んでいたのが印象的。息子高士は俳優。今日テレビでお馴染みである。
  過去の沿革を知る。先覚者の努力とたゆまざる奮闘が今日を成さしめたのである。感謝をこめて銘記する。」
 先の池田七郎回顧録と、この記録に食い違いがあるので、次号で整理してみましょう。(続く)

《中庭だより》☆ご自分のルーツを研究されている市民の方が、本州で接触された研究家から野付牛関係絵葉書17枚を預かって、最近当室に見せに来てくださいました。多くは見たこともない絵葉書で、大変興味深いものでした。当市以外に、思わぬ資料があるものだと痛感しました。

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