ヌプンケシ192号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.192
 タイトルヌプンケシ
平成22年6月1日発行

◎きたみ写真ことはじめ(2)

◇吉田写真館の開業年は?
 北見で最初に定住して写真業を始めたのは、池田七郎氏によれば明治「四十二年十月十四日網走から」移転してきた「吉田登世氏」であり、『全北見写真師会創立20周年記念誌』では「吉田登四」で「野付牛町 明治43年」開業して「網走の吉田登一の弟」となっています。
 同一人物と思われますが、この二つの資料では、名前が「登世」と「登四」で少し違い、開業年も明治42年(1909)と明治43年(1910)と一年違います。
吉田登世写真 そこで過去の名士録を探して見ると、大正11年(1922)10月発行の『北見之人』には「吉田登世」とあり、その経歴は「明治十四年十月十五日北海道函館区船見町に生る、父を喜平と称し君は其二男なり 明治三十七八年戦役 近衛師団に従て出征し 功に依り功七級勲八等に叙せらる 明治四十二年野付牛に来りて写真業を開き 大正九年吉田写真館を新築して今日に至り 消防小頭の職を帯ふ」とありました。右は『北見之人』に掲載された本人の写真です。
 同書によれば、吉田は明治14年(1881)10月15日に函館に生まれ美丈夫だったからか、日露戦争では近衛師団に入隊従軍し、明治42年(1909)に野付牛に来て写真業を始めたとのことですから、開業年は「明治42年」で間違いないと思います。

◇北海道写真界の先駆者、田本研造

 また、池田説の同年「10月14日」というのも、28歳の誕生日前日に、心機一転で野付牛に来たように読取れますが、しかし『北見之人』には網走から転入してきたとも、どこで写真師の技術を身につけたかも、具体的な記述は見られません。
 ただし、出身地の函館は、幕末から明治まで北海道写真界の先駆者で、多くの門人を育てた写真師、田本研造の写真館のあったところですから、その影響下で修業したと考えられます。
 昭和58年(1983)11月発行『北海道写真史』等によれば、田本研造の略歴は次のとおりです。
 田本研造 たもと けんぞう 天保3年(1832)4月8日〜大正元年(1912)10月22日 写真師。現在の三重県熊野市出身。安政6年(1859)箱館に来たが悪性の壊疽にかかり、ロシア領事館の医師ゼレンスキの手術を受けて右脚を切断した。治療中、ゼレンスキから写真技術の手ほどきを受けたが、その後、横山松三郎・木津幸吉とも研究しあい、人物も風景も写し、慶応3年(1867)には木津と共に福山城を撮影した。明治2年(1869)箱館大工町(現末広町)に北海道で最初の写真館を開いた。同4年(1871)札幌の開拓使本庁の御用写真師となり、石狩などの開拓状況を撮影した。井田侾吉をはじめ、札幌の武林盛一、根室の吉田久二、小樽の三浦喜八など明治初期に開業した各地の写真師のほとんどは田本の指導を受けている。享年81歳。

◇吉田登一の経歴資料なし。

 池田説も『記念誌』も、この野付牛の吉田が網走との関係がある記述です。そこで明治32年(1899)に網走で開業した吉田登一の経歴から兄弟かどうか確認しようと思ったのですが、網走市立図書館にも当市の中央図書館にもその情報はありませんでした。
 広告では明治45年(1912)4月発行の『北見の実業』2号に、次の祝儀広告がありました。「祝発刊/北見國網走港北見町/写真師 吉田登一/記者曰く同館は網走一の写真館を有し其技術精巧にして京阪地方に劣らざるの写真を製造しつゝあり」
 大正元年(1912)10月発行の『北見繁栄要覧』には、吉田登一が新築した写真館についての次の記事があり、「春陽館は写真師吉田登一氏の営業場にして 網走町大字北見町南通五丁目にありて 同氏の意匠になれる設計の下に新築せられたるものにして その構造清瀟と謂はんよりも寧ろ高雅と斬新を加味したる一大美術館なり 氏平生斯界の技術進歩に対して注意おさおさ怠らざるを以て 克く時流に投し特色を発揮すること 啻に撮影の妙や永久不変色等の術に巧みなるのみならず 兼て風流、風致を貴ぶを以て同氏の写し出せるもの自から都雅の風を帯び 往々都人士として舌を巻かしむることありと云う 今網走の繁栄は頓みに加れり 氏亦た多忙となり 殆んど寸暇なきの有様なり。」と立派な写真館と繁盛している様子が書かれ、同誌の広告には「新築移転/昼夜撮影/網走町大通/吉田写真館/公園坂下」とありました。
 インターネットでは、明治37年(1904)に吉田登一が妻の病死にショックを受けてハリストス正教会に入信したことと、俳人の石田波郷(1913年3月18日〜1969年11月21日)が昭和21年(1946)に上京した時、頼った義兄として小野勲司(本名:吉田登一)がヒットしただけでした。  
 このインターネットの小野勲司が、探している吉田登一と同一人物かどうか確証はありませんが、関係情報の少なさから考えて時期は不詳ですが、吉田登一は網走から他へ転出したと思われます。網走市民で、どなたか吉田登一の消息を知っている方はいないのでしょうか。
 結局、「網走の吉田登一の弟」かどうかは不明のままですが、名前の一部に「登」があること、網走に関係することなどから、吉田登一の縁者には違いないと思われます。
 それでは名前は「登四」と「登世」のどちらが、本名かということになりますが、これも確定できる資料はありません。ただ、これはあくまでも推測ですが、「登四」=「とよ」が本名で、「四」は「死」を連想するので、成人してからは「登世」を通称として使用し、改名していたのかもしれません。筆者は『北見之人』に従い、「吉田登世」を使うこととします。
◇吉田写真館の営業場所の変遷
 吉田登世が明治42年(1909)に野付牛へ来て最初に開業した場所は、池田説によれば「仁頃道路辺に(南側)」となっていますから、現在の大通り東4丁目あたりでしょうか。明治45年(1912)3月発行の『北見の実業』創刊号の広告には、「野付牛市街地/写真師 吉田写真館/記者曰く、同館は巧妙なる技術を以て引伸ばし写真の需めに応ずべしといふ」とありますが、「野付牛市街地」では正確な位置は不明です。
 大正6年(1917)9月発行の『北見國野付牛要覧』には「野付牛一条通根室銀行隣/吉田写真館/館主 吉田登世」と広告がありますから、駅前の「北1条西1丁目」、現在の北海道銀行隣に写真館を構えていたことが分かります。
 大正12年(1923)8月発行の『野付牛総覧』には、加藤勝次郎・吉田登世・合田才太、3名の写真師の氏名が掲載されており、吉田の営業場所は「一条通西三丁目」になっていますが、同総覧付録の「野付牛電話早見表」には「三〇一 吉田写真館 北二西三」で一致しません。こうした間違いは古い印刷物には多々あることで、これは前掲『20周年記念誌』の記述など各種資料からして「北2条西3丁目」が正しい場所です。場所は現在の朝田ビルのところで、先の『北見之人』に大正9年(1920)に新築されたとある写真館はここにあったのです。(続く)

《中庭だより》☆5月22日、北網圏北見文化センターで開催された北海道立文書館「古文書教室」には30名の方が受講されました。受講生の関心も高く、質問も熱心になされました。講師をされた文書館の石川淳様、文化財課嘱託学芸員の佐々木覺様には、心からお礼申しあげます。

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