ヌプンケシ196号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.196
タイトルヌプンケシ 
平成22年8月1日発行

◎きたみ写真ことはじめ(6)
◇オーロラカメラ会
オーロラカメラ会写真 野付牛に層としてのアマチュア・カメラマンが登場してくると、同好の士が集って情報・技術を交換するグループも形成されました。
 そのグループ、オーロラカメラ会については『歴史の散歩道』で次のように紹介されています。
 「大正時代になると、野付牛町にも日の出、吉田、加藤という写真館が建って、専門の写真屋さんもだんだん増えてきておりました。/ここにとりあげる『オーロラカメラ会』は、お客を相手の営業とは違い、芸術的な作品を目指すアマチュア中心のカメラグループです。このあたりに、新開地野付牛の住民の、芸術意識の芽生えを見ることができると思います。」松本倭左男氏の世話で一般人にも写真材料が手に入るようになり、同会が発足したのは大正11年(1922)の秋のことだそうです。
 「農学士で農場主だった野田儀三郎、それに岸山兵一といった人々、また掲載の写真は昭和四、五年頃の撮影会に参加した人々で、右から梅谷友吉、加藤操、松本倭左男、伊藤二郎、阿部一、三好玄洋ですが、いずれも会の主要なメンバーです。加藤、阿部は、写真館を経営する本職の写真師でした。/全員が会長であり会員であるというような、自由な雰囲気の会でした。暗室がわりの押し入れで作品の制作に取り組み、気の向いた時に集っては、カメラ談議に花を咲かせておりました。メンバーはみな凝り性で研究心に富んでおりましたから、作品の芸術的水準は高く、全道的にもその実力は高く評価されておりました。/当時、道内有力紙の一つであった小樽新聞が主催して、全北海道樺太写真連盟というのがありましたが、オーロラカメラ会の出品作品は、その年次大会に連続十年上位入選して、カップを獲ったりもしておりました。主な入選者は伊藤二郎、三好玄洋、松本倭左男、阿部一といった人々でしたが、昭和十二年からは、進藤常治の活躍も目立っています。そして、発表の舞台は更に朝日カメラ(日写連)などへと発展し、昭和十四年には進藤の作品『丘』が、日写連の推せんになって、朝日カメラ誌上をかざったりもしました。こうした中で、一時は会員四〇名をかぞえたこともありました。」
 本文にある野田儀三郎氏は、三重県立農業学校の校長を退職後、野付牛高台に農場を開いた人物です。岸山兵一氏は筆者のデータにはない人物ですが、大正12年(1923)8月発行の『野付牛総覧』の記事と広告にある岸山商事合名会社の代表者かも知れません。今後調査します。
 また写真説明にある梅谷友吉氏は有名な料亭「梅の家」の息子です。伊藤二郎氏は札幌市出身で戦前一力無尽に勤務、戦後は北洋相互銀行副社長になった人物です。三好玄洋氏の情報はありませんでした。戦前あった三好写真館の関係者かも知れません。この人も調査対象です。
 こうしてみると、オーロラカメラ会のメンバーの多くは町の若手有力者であったようです。
 「満州事変(昭六)の頃、松本は青函連絡船上でこのパテーベビー(ページ下参照—引用者)を使い、憲兵にフィルムを没収されたことがありました。このことがラジオの全国ニュースで報道され、松本はスパイかというウワサに友人たちを心配させたものでした。戦争がい良いよ激しくなり、写真材料が入らなくなってくると、いつかオーロラカメラ会の活動も消え細っていきました。しかし、その後も進藤らの手でオーロラカメラ会の灯はともしつづけられ、今日に至っています。/ともあれ私たちは、古い因襲にとらわれない、自由かっ達な、そして夢に生きた北見人の一時代を、この会の消長に見る思いがします。」
◇「オーロラカメラ会」名の由来〜新聞記事から
 『北見市史』編集委員長であった鈴木三郎先生の資料を見ていましたら、先に引用した『歴史の散歩道』の「オーロラカメラ会」の記録は、昭和31年(1956)6月1日の『北見毎日新聞』、昭和42年(1967)5月31日の『北見新聞』の記事をネタにしているのを見つけました。
 昭和31年の記事には、「写真は光がなくては写せないし 北見は北国なので その会は極光を英語になおして“オーロラカメラ会”と名付けられた。」と会名の由来も書いてありましたので、補足しておきます。
 また、同記事には同会の生みの親である松本倭左男氏の思い出話も載っていました。
 カメラを「私が最初に手にしたのは16歳の時で、キャビネ判の暗箱カメラ、当時ハンドカメラというのは大変めずらしがられ“早とり写真機”と呼ばれていた。オーロラクラブをつくった頃は北見はもちろん北海道にもロールフィルムを売っている店がなかったのでわざわざ神戸まで注文したものだ。それからパテーベビーという九ミリ半の手回し撮影機を四十五円で買ってスキー大会や、登山、花見をとったりそれにシナリオに合わせて劇映画をつくり、映画会を開催して町の話題となった。こんなことで私のところは写真材料の山となり一時は自分の使う分を売ったこともある。しかし当時のお弟子さん達も今ではすっかり腕が上ってしまって・・・この頃は専ら家庭の記録写真程度にとどめていますヨ。」
 大正10年(1935)に野付牛町にやってきた時、松本氏は24歳でしたから、その時点で8年のカメラ歴があったことになります。この話では16歳で最初に手にしたのは乾板を使用する暗箱カメラで、野付牛ではロールフィルムを使うハンドカメラ(早とり写真機)になったようです。
◇戦後の動き
 戦後、オーロラカメラ会は進藤常治氏を中心に活動し、昭和31年(1956)の時点で会員は6名になっていました。『歴史の散歩道』が発行された昭和61年(1986)まで活動していたようです。松本倭左男氏が逝去したのが同年ですから、その前後に活動を停止したと思われます。
 そのほか、戦後、北見に誕生した写真の会やクラブを、『北見市史』編集委員長=鈴木三郎先生が切抜きした記事に基づいて列挙すると、昭和26年(1951)4月に全日本写真連盟北見支部(初代支部長・夏野才蔵)、国鉄では昭和27年(1952)に機関区写真同好会(初代会長・山崎助役)、昭和31年(1956)2月には統計事務所職員の統計カメラ同好会(会長・江端忠雄)、昭和33年(1958)にはNHK北見放送局員によるKP写真クラブ(会長・山下正樹)、昭和38年(1963)5月19日創立北見カメラクラブ(初代会長・長尾市治郎)などがありました。
 平成19年(2007)発行の『北見現代史』を見ると、このうち現在も活動しているのは全日本写真連盟北見支部だけで、戦後労働運動を背景とした職場カメラサークルはなくなっています。
 以上、北見の写真の事始を探っても未解明なことばかりで、今後も調査を続けます。(完)

《中庭だより》☆訂正のお願い  読者から当ニュース190号の2ページ、上から16行目の「野付牛警察分署、野付牛警察署に昇格」日の間違いのご指摘がありましたので、同紙を保存されている方は9月16日に訂正をお願いします。筆者の単純な転記ミスでした。ごめんなさい。(汗)

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