ヌプンケシ197号

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市史編さんニュース NO.197
 タイトルヌプンケシ
平成22年8月15日発行

◎珍しい千人針を拝見

 7月5日、市民の方が本年5月15日に札幌で88歳でお亡くなりになった、ご親戚の正村(まさむら)俊雄氏の遺品、「日の丸の寄書き」3枚と、「千人針とそのカバー」一組を当室に持参されました。早速、3枚の寄書きを見せてもらいましたが、作成年月日を示すものがありませんでした。ただ、英米を敵にした文字は見えないのと、「聖戦」という文字が見えますので、昭和12年(1937)の日中戦争以後、昭和16年(1941)の太平洋戦争前に寄書きされたものでしょう。昭和12年南京攻略時に新聞が扇動した「百人斬り」競争の影響か、寄書き中央に「一刀必殺処断」という文字が大書された一枚もありました。また別の一枚の寄書きには、5銭が縫い付けてありました。いずれの寄書きにも、激励や好戦的な文字が踊っています。
 また千人針のセットは保存状態もよく、筆者がみたことのない珍しい形態をしていました。そこで今日は「終戦記念日」にちなんで千人針を取上げてみましょう。
◇正村俊雄氏の略歴
 その前に、正村氏の略歴を紹介しておきましょう。正村氏は父・與四郎氏、母・トヨさんの次男として、大正11年(1922)1月19日野付牛町に生れました。昭和8年(1933)11月発行の『野付牛名鑑』によれば、父・與四郎氏は4条西3丁目で薄荷商をしていたようです。昭和14年(1939)3月に俊雄氏は野付牛中学校を卒業されています。中学校同期には市長になった(故)宇佐美福生氏、歯医者の(故)大島一郎氏がいました。来室されたご親戚の話では、戦中は将校として中国大陸にいたそうで、中学卒業後は幹部候補生に志願して、陸軍士官学校に行ったのではないか、とのことでした。残念ながら軍隊手帳がなく、正村氏の詳しい軍歴は不明です。
 戦後、いつ復員したかは不明ですが、昭和24年(1948)に北見市北1条西1丁目の会陽館の向かいに「信光堂運動具店北見支店」を開店、その後「オリンパス運動具店」となりました。昭和31年(1956)、並河京子さんと結婚。昭和36年(1961)1月12日に起きたパチンコ・ラッキーホールの火事の延焼で運動具店は全焼。店舗を北3条西2丁目(現在、駐車場)に移しました。
 昭和41年(1966)5月創業の「北見カントリークラブ」に勤務、昭和43年(1968)から47年(1972)にかけて、同クラブの支配人をされました。その後、士別市に転出、同市でのゴルフ場の設計、管理に携わっていたそうです。
◇千人針
 さて話を千人針にもどしましょう。千人針といっても、若い方には何のことか分からないことでしょう。たまに、戦時中のニュース映画や戦争映画で、人通りの多い街角で、出征兵士の家族が千人針の布を持って協力を呼びかけるシーンがでてきます。平成14年(2002)発行の『戦時用語の基礎知識』では次のように説明されています。
 「千人針は、戦場に赴く親子兄弟あるいは愛する人のために、その武運長久を願って、一人一針ずつ千人の女性から千個の縫い玉を作ってもらった布のことで、晒し布に赤糸が使われた。死線(四銭)を越えると五銭玉、苦戦(九銭)に勝つという意味から十銭玉などもよく縫いつけられ、戦場へ送るとき必ず持たせることが習慣となった。これは無事を願う彼女たちの精いっぱいの気持ちの現われであった。/この風習は、日清戦争からとか日露戦争のころから行われたともいわれているが、さだかではない。千人針の名は、『虎は千里を行って千里帰る』との故事から出ており、従ってはじめは寅年生まれの女性だけが縫い付けたといわれる。/日中戦争が拡大され、つぎつぎと多くの人々が召集をうけるようになると、もうどこの街角でも道行く人々に千人針を求める婦人たちの姿がみうけられるようになり、寅年生まれにかぎらず、一針一針求めに応じて縫い玉を作っていた。ただし、寅年生まれの女性にはその年齢の数だけ縫うことできる特権が与えられていた。/また、昭和一三年(一九三八)七月一九日付の大阪毎日新聞に、『千人針の中に女の毛髪を!』という記事がある。女の毛髪を入れた千人針は弾よけに非常に良いということで、戦地で実証されたと銃後国民に呼びかけている。/千人針の多くは腹巻きとして作られ、寒冷地に赴いた将兵たちには防寒用としてよしとしても、南方戦線に送られた将兵にとっては彼女たちの真心とはうらはらに、身につけるのはいささか抵抗があったようである。泥と汗によごれ、糸の縫い目がシラミの温床となり苦労した話もよく聞いた。」
◇正村氏の千人針は・・・
 そこで正村氏の千人針をみてみると、千人針本体とカバーがセットになっています。
 カバーの方にはトラの姿が内部に縫いこんであり、「ベニヤ製」との文字も読めました。
 本体の千人針は中に折り込んで縫われており、中央の臍にあたる部分はポケットになっていて、小さな国旗と向かい合わせにお守りが縫いこまれていました。筆者が文献写真で見てきた千人針はいかにも短時間に作られた、赤い糸玉が見える代物でした。それと比較すると、正村氏のは相当に手の込んだ、お金のかかった千人針です。下に掲載したのが、その写真です。
千人針の写真 やはりこれは、正村氏が幹部候補生に志願したことと関係あるようです。先に引用した『戦時用語の基礎知識』によると、昭和13年(1938)2月の兵役法改正で、歩兵の2年在営制が復活し、学校教練修了者の在営期間短縮の特典も廃止され、幹部候補生も一般兵と同じ2年の在営期間となり、昭和14年(1939)1月には幹部候補生等から将校になった者が現役として戦地に赴く道が講じられたとのことですから、正村氏が幹部候補生に志願した時点で、訓練後に戦地に赴くことが決定されたようなものだったのです。それも、泥沼化した激戦地である中国戦線に投入されることは確実でした。
 ですから、先の三枚の寄書きは、正村氏が17歳で幹部候補生に志願した時点で学友たちによって書かれたものと思われます。千人針の方は士官学校に行っている間に作られたものと考えられ、時間があるだけに親御さんが正村氏の無事を祈って丁寧に作られたものと思われます。その思いを知っていたから、正村氏は死ぬまでこれらの品々を手元においていたのでしょう。
 前線に立った下級兵士の、多くの千人針はノミやシラミの巣になったので棄てられたと聞いていますが、正村氏の千人針は保存状態もよく、目だった汚れもありません。正村氏が将校だったというのも、この千人針の状態から推測できます。
 この寄書き3枚と千人針セットの現物は当市にご寄贈頂き、市教委文化財課で保存されています。こうして北見出身者の戦争関係の遺品を見るにつけ、様々な想像が浮かびます。(完)

《中庭だより》☆皆様に直接市史に触れて頂くため、7月26日から旧市史・町史の価格を改定、『北見現代史』 『新端野町史』 『常呂町百年史』 『新留辺蘂町史』が旧価格28,500円のところ、セット価格で18,500円等とお求めやすいように致しました。詳細は当室へお問合せ願います。

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