ヌプンケシ198号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.198
タイトルヌプンケシ
平成22年9月1日発行

◎児玉 兼次(こだま かねじ)氏調査、その後(1)

 大正時代、野付牛駅前で児玉待合所を開き、戦前ブラジルに渡った児玉兼次氏について、昨年=平成21年11月のニュース178・179号で『児玉待合所・洋食・ブラジル』と題して報告した所です。今回はその後の調査で分かったことについて、レポートしてみたいと思います。
◇橋爪実氏から渡伯の貴重な情報・資料提供
 前記ニュースを読んだ訓子府町在住の地域史研究家=橋爪実氏が、12月18日にわざわざ当室に来られて、貴重な情報と史料を提供してくださいました。
 ニュース178号では、児玉兼次氏に関する鈴木三郎先生の聞取り調査「メモ」を紹介したところですが、それには「昭和5年(1930)伯父 石原辰雄、二男巌を先発して南米調査」とあるのですが、橋爪氏が持参された1968年6月発行の北海道百年記念『在伯北海道人史』のコピーで、石原氏等について、次のように記載されていることを教えていただきました。
第貳百七拾八回伯剌西爾行移民名簿 「石原 辰雄 TATSUO ISHIHARA 1898年生、妻とみ、家族9名、キリスト教、北見国常呂郡北見市番外地、1928年博多丸、日語教師、聖市ルア・コロネル・ルイス・タリア・ソウザ417」
 「児玉 巌 IWAO KODAMA 1909年生、妻カネ、家族3名、キリスト教、北見市、1928年ハカタ丸、銀行員、サンパウロ州マリリア市カストロ街8.C.P.128」
 これで石原と巌の両名は、聞取りより2年早い、1928年=昭和3年に博多丸でブラジルに渡っていたことが分かりました。
 児玉兼次氏についても、『在伯北海道人史』では次のように記録されています。
 「児玉 兼次 KANEJI KODAMA 1885年(1877年の転記ミス?−引用者)生、北見国野付牛、1938年リオデジャネイロ丸、C.P.27.Suzano −Central」
 鈴木先生の「メモ」では、兼次氏の渡伯は昭和12年になっているのですが、この資料で1938年=昭和13年であることが解明されました。
 また決定的史料として『昭和13年1月31日神戸出帆/りおでじゃねろ丸便/昭和13年3月16日サントス着/第貳百七拾八回伯剌西爾行移民名簿/海外興業株式會社/監督 若原 茂』にある児玉兼次家族分のコピーもご提供頂き、紙面の関係で割愛しますが、渡伯した一族の構成も知ることができました。こうして、より正確な史料で事実が明らかになることは大変喜ばしいことで、橋爪氏のご配慮に深く感謝します。右はその移民名簿の表紙コピーです。
◇明玉軒・児玉待合所の開店は?
 筆者はニュース178号で、児玉兼次氏の除籍から見て野付牛入地を大正2年(1913)と推定していたのですが、先日 明治45年(1912)4月発行の『北見の実業』第1巻第2号を開いて、次ページの記事を見つけました。
 「明玉軒のあるじ二たび鉄道構内に新たに館をつくり、めでたきなりはひをいとなみはじめ、けふ開店の賀に侍り石原翁父子、桜花園の君、岡村教兄らと共に早うちかこみ、さまざまなものたふべにける。/あるじは嘗て海外漫遊のをり目撃せし米国タコマ一等ステーションなど諸處実況の物がたりに、数千百里のここかしこより夜昼となく出入来る旅客をなくさめんとて 楽隊は大いなる美はしき大理石もてつくりたる楼上楼下より 妙へなる音楽をかなで 恰もその佳境に入らんとする時 船と汽車とは喨々汎々として一瞬千里互に離れゆく その光景、いひしらぬ趣きありとかや、やがてわが野付牛も栄え栄えて かしこの如くあらまほしと思ふこころをうちこめて 此家の開業を祝ひて/けぬれば世はことの音も添ひて きしや待合のぞたのしき/明治四十五年一月廿八日/北溟漁人西森するす」(以上、原文のまま−引用者)
 この記事は要するに、明治45年(1912)1月28日、二度目の明玉軒新築開店祝に招かれた北溟漁人を名のる西森という人物が書いたもので、お祝いに「明玉軒」を織り込んだ歌も詠んでいます。この記事どおりでいけば、明治45年以前に明玉軒は開店していたことになります。
 同記事によれば児玉氏はアメリカのステーションから発想して待合所を創業したようですから、「明治44年(1911)9月25日、野付牛駅正式開駅」にあわせて入地・開業したと見るのが妥当で、経営が順調なのを確認して大正2年(1913)に旭川から野付牛へ転籍したのでしょう。
◇明玉軒の繁盛ぶり
 「ピアソン夫妻が野付牛に腰を落ち着けた大正三年(1914−引用者)あたりを境に、この北辺のマチにもにわかに文明の香りが漂ってくる。」とは昭和46年(1971)9月19日付、北海道新聞の特集『ハッカ物語/第二部ブームにわく野付牛』(16)「洋食文明」の書き出しです。そこでは明玉軒の繁盛ぶりが次のように紹介されています。
 「洋食屋が初めて看板を掲げたのもこのころ。駅前にある喫茶店『ダンテ』のあたりに、児玉というアメリカ帰りのコックが開業した。大正九年、共成野付牛支店(道内では当時有力な米問屋)に入社するため、停車場を降りた近藤栄治さん(七〇)=北見、近藤銘木店社長=はあまりの繁盛に目を丸くしている。『小樽や札幌からきた出張員なんかがさっそうと食べてる。みんな洋服でしたね。私も首が痛くなるのをがまんしてエリの高いカラーをつけて日参したものです。』/まだ根室銀行の支店長すら角帯に前掛けの時代である。メニューにならんだライスカレー、ビフテキ、カツレツの数々は農家の人にはまだ縁遠かった。/『気味が悪いと農家の人たちは食べない人が多かった。たまにテーブルにすわってもナイフとフォークの使い方がわからず、手でつかんで食べたりした』(北見市、長尾市治郎さん、六十五歳)。『そうビクビクせずに胆を据えてナイフをお取りなさい』 『まるで血闘でもするようだ』 『思い切って其(その)ビフテキに突ッ通して御覧、もっとナイフを立てなけれァ切れやァしない』(伊藤銀月『最新東京繁盛記』)こうした話は当時の光景を思い起こさせて興味深い。」
 筆者が複写してきた大正7年(1918)9月20日付『釧路新聞』の中にも次の記事がありました。
「製粉創立総会/野付牛に於る北見製粉株式会社は梨羽葵未人氏主唱発起の下に矢武伊太郎氏鈴木浩氣氏等協力奔盡株募集中の處此程萬株以上の申込みあり盛況裡に終了せるより本月十五日午後停車場前児玉待合新築楼上に於て創立総会開催」とあり、総会後に同会場で慰労宴をして散会しました。この記事によれば大正7年にも、児玉待合は新築しているようです。
 また同新聞の大正11年(1922)11月3日には、同年10月31日に「学制発布五十年記念式」が野付牛中学校で開催されたことが記され、その「当日は学制発布五十年を祝すべく各学校教育、役場吏員、新聞記者等無量五十四余名児玉待合にて祝賀会を開催し佐藤中学校長の挨拶に立食の宴を催し」と書かれています。
 この通り、明玉軒・児玉待合は各種会合の会場として活発に利用されていたのです。(続く)

《中庭だより》☆8月19日、札幌の人から「私は第7師団のことを調べています・・・ノモンハン・中国戦線・ガダルカナルなどで、7師団の26・27・28連隊がどのような変遷をたどったか知りたい云々」とメールがありましたが、当市には史料皆無で回答不能です。取敢えず勉強します。

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