ヌプンケシ200号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.200
タイトルヌプンケシ 
平成22年10月1日発行

新井三之助氏写真a◎児玉 兼次(こだま かねじ)氏調査、その後(3)
◇新井三之助氏のこと
 前号のニュースを読まれた読者の皆様は、大正5年(1916)9月3日付 『釧路新聞』 記事の中に児玉氏と並んで 「新井氏」 という名前があったのをご記憶でしょう。この新井氏は、新井三之助氏か、熱心なキリスト教者だった弟の辰五郎氏のどちらかだと筆者は思っています。
 その新井三之助氏は明治16年(1883)9月15日埼玉県生れ、兄=宇太郎氏が先駆けになって一家挙げて北海道に渡り、旭川から帯広を経て野付牛に入り開拓で苦労され、明治43年(1910) 野付牛駅前に新井兄弟商会を開き繁盛する等の生涯を自伝 『落穂』 に記されています。
 同氏は、昭和53年(1978)1月17日に94歳でお亡くなりなるまで記憶力抜群で、北見の生き字引と言われていました。昭和49年(1974)7月発行の北見女性史研究会機関誌 『北見の女』 創刊号で、大正時代のキリスト教布教の様子を聞かれて、新井氏は次のように答えています。 
   ピアソン氏は、主に家庭訪問をやっていました。別の宗派で、ホーリネス教会の池田牧師は、ちょうちんをつけて 「信ずる者は誰もた〜だ信ぜよ〜。み〜な救われん。」 と歌をうたって、太鼓をたたいて、みんなが集まって来ると、説教していました。この説教が始まると、高台寺の住職が来て、石を投げて罵倒して邪魔をするので、当時高台寺の檀家総代だった私が、「何が為に反対するか。人の良い方に導くのが宗教ではないか。みな手をつないで良い道に励んで行くのが本当ではないか。」 と注意したのですが、けんか好きの住職は聞きいれないので、これを契機に檀家総代をやめてしまいました。大正六年のことです。それ以来、キリスト教信者になりました。(上の写真は85歳の新井三之助氏です。)

◇新井三之助氏もホーリネス教会の信者だった?

  前号掲載の大正6年(1917)10月20日付『釧路新聞』の記事、「野町の黄白神聖戦争」を再確認できるお話ですが、ここで注目したいのは新井氏が禅宗からキリスト教に改宗したことです。 
 『北見の女』創刊号発行時に、この聞取りを読んだ筆者は、新井氏はピアソン牧師が指導した日本基督教会に参加したものと思っていました。しかし、あらためて『落穂』改訂版を読み返し、昭和13年(1938)2月26日に逝去された三之助氏の母=里さんの「葬儀は自宅でホーリネス教会の長塚牧師の司式で私の二女・仁子の奏楽により盛大に執り行われて五、六百人もの会葬者があった。」という一節を読んで、新井氏が最初に洗礼を受けたのはホーリネス教会ではなかったか、と思うようになりました。それであれば、ホーリネス教会牧師が司式した昭和7年(1932)の故土屋良子夫人葬儀で「新井三之助氏弔電を披露」したのも納得できます。

◇児玉兼次氏と新井三之助氏は友人だった。
 明治44年(1911)の野付牛駅正式開駅をあてに、児玉氏は駅構内に、新井氏は大通りを挟んだ角(元ラルズ跡)に開店したので、古くから近所付合いをしていたのでしょう。『落穂』改訂版に次の文章を見つけました。
 新井三之助氏は店の運営で神経衰弱となり、大正9年(1920)4月上京、催眠療法を受けていました。「そんなある日のこと、宇太郎から長文の電報が届き、私達の友人である児玉兼次氏から同氏が所有している高台の住宅地一万五十坪と我が駅前の店舗との交換の申し入れがあり、受諾すると店の営業権を放棄することになるが、どうするかと私の意見を求めた。(中略)全て任せる旨返事をして約二十日間滞在した神戸を後にして帰国した。」
 「親兄弟思いの宇太郎は、私が病気になった原因は店舗経営の重責を一手に担った為であり、精神衰弱症の治療は長期間必要と考えていた。そんな時に筋向いの洋食店を営む児玉氏が、(中略)私達の店舗を買い、その跡地で洋食店を開こうと前述の交換を申し入れて来た。永年の暖簾があって相当な収益をあげていた我が店を廃業することは忍びないことであったが、宇太郎は支配人である私の神経衰弱症を思いばかり、また将来の損得をも考慮し、交換を受け入れて大正九年(一九二〇)九月に店舗を閉鎖して廃業した。」
 駅前にあった新井兄弟商会の店舗と交換に高台の住宅地1万50坪を手にいれたということは、通称「新井通り」一帯の「高台新町」の土地は元々児玉氏が所有していたことになります。
 昭和12年(1937)9月頃、ホーリネス教会が「2条西2丁目」から「高台新町」の新井通り入口角に移転してきたのも、その土地が信者の新井三之助氏のものであれば腑に落ちます。
◇新井兄弟商会の店舗跡は?
 さて、新井兄弟商会の店舗を交換した児玉氏が、そこで洋食屋を開店した様子はありません。大正10年以降に撮影された古い駅前の絵葉書を見ると、新井氏の旧店舗は和洋食料品の「田村商店」になっています。また昭和54年(1979)発行の写真集『明治/大正/昭和/北見』40ページと46ページの駅前写真の各説明では、新井兄弟商会跡は「何軒かの貸店」になって「菓子屋や、待合所、雑貨屋があった」とあります。その後、児玉氏は昭和2年(1927)10月11日に「ビルディング百貨店」を創業する土屋伸氏に、その角地を譲ったのかもしれません。なお、土屋伸氏は前掲の故土屋良子さんの実兄で、ここでもホーリネス教会と関係がありそうです。
 何れにしても、児玉氏が洋食屋以外に事業を拡大したのは確かで、昭和46年(1971)12月発行の『北見の今昔』に転載された、昭和2年度「野付牛金持番付」では東方の「横綱 呉服商 伊谷半次郎」に並んで「大関 呉服商 児玉兼次」と記録されています。また、児玉待合所を廃業後の、業種の記載はありませんが、昭和10年(1935)度の「野付牛町金持番付」でも児玉氏は東方の筆頭「前頭」ですから、戦前の野付牛町内では間違いなく成功者の一人だったのです。
◇児玉兼次氏のブラジル移民の背景
 昭和13年(1938)1月、家族とブラジルへ出発した時、児玉氏は60歳でした。ブラジルに渡ってから兼次氏は、野付牛時代のことはお孫さん達に殆んど話さなかったそうで、同氏が野付牛での「成功」を捨てて、ブラジルに移民した動機が何であったか、今は知る術がありません。
 しかし、そこには日本が昭和4年(1929)の世界大恐慌以後、その解決策を大陸侵略に求めて昭和6年(1931)に満州事変を起こし、昭和12年(1937)7月の日中戦争開始に前後して一層自由のない社会になったことが背景にあったと思います。特に「信教の自由」においては、昭和10年(1935)天皇機関説弾圧から始まった「国体明徴」運動の中で国家神道が強調され、神社参拝が日本臣民の忠誠心の証とされました。それはキリスト教者にも強制され、キリスト教暗黒時代が始まりました。昭和11年(1936)ホリーネス教会はそれまでの伝道主義を守る「聖教会」と愛国主義を強めた「きよめ教会」に二分され、野付牛は「聖教会」に組しました。前記した野付牛の教会が繁華街から「高台新町」に移転したのも、何らかの圧力が働いたのかも知れません。また全てとは言いませんが、児玉氏の移民にも影響があったと思います。太平洋戦争中の昭和17年(1942)ホーリネス教会関係者は治安維持法で弾圧され、教会は閉鎖されました。戦後宗教弾圧の事実が明らかになりましたが、野付牛の教会は再興されることはありませんでした。
 ここで筆者が収集してきたデータも尽きましたので、中途半端になりますが、一時筆を置きます。今後も児玉兼次氏の調査を続行しますので、ご協力をお願いいたします。(完)
 

☆『ヌプンケシ』200号記念特集〜『読者から一言』(1)〜
 今号でこの市史編さんニュース 『ヌプンケシ』 も、200号を数えることが出来ました。
 これも読者の皆様のご支援の賜物と、市史編さん職員一同、心より感謝いたしております。
 つきましては、ここに多数の読者の方々から玉稿が寄せられましたので、紙面の都合上、今号から連載して記念特集とさせて頂きます。


画像お花『ヌプンケシ』 200号発刊にちなんで
清水昭典

 

 平成13年、当時の神田孝次北見市長は、かねて市民の間から起こってきた新しい市史編さんの要望に応え、その体制づくりに入った。その具体化として4月、市史編さん担当の企画部主幹として、図書館長であった田丸誠氏が異動となり、事業の企画進行を担当することになった。
 田丸氏は市史編さん事業を市民と庁内職員に理解してもらうために、5月17日、市史編さんニュース 『ヌプンケシ』 1号を発行した。「ヌプンケシ」 とはアイヌ語で 「野の一方の端」 を意味し、北見市の前身 「野付牛」 のもととなった名である。この命名は、当時北海道の地方史が和人の渡来以後の歴史叙述、とくに和人の開拓史に偏りがちであったことに対する反省を含んだものであった。
 それ以来、毎月2回発行、平成22年10月1日発行まで200回に及ぶ 『ヌプンケシ』 が刊行された。はじめ 『ヌプンケシ』 は、北見市史の由来、北見とアイヌ、北見の地名の由来、町並の由来などを述べ、市民の質問に応答したり、発足したばかりの市史編さん委員会の活動、亡き鈴木三郎前回市史編集委員長の人柄と業績などを明らかにしたが、次第に田丸氏の多岐な関心の赴くままに、「北見の芝居ことはじめ」 「秩父事件と井上伝蔵」などが連載されるようになった。これらの過程で田丸氏は、わが国の近現代史の重要な事件と北見市のかかわり、例えば日露戦争と野付牛村民、第2次大戦後における日本兵士のシベリア抑留と北見市民、戦争裁判と平手嘉一大尉などの項目が連載され、北見地方の歴史を地域限りのいわゆる郷土史としてでなく、日本の近現代史との関連で捉えようとする問題関心を深めていったように思われる。また常呂川の流れにおける地誌からアイヌ民族の足跡を松浦武四郎の東蝦夷探検などを通じて市民に紹介した。
 最近の 『ヌプンケシ』 では、田丸氏は、従来の北見市史では、その名前が判っているけれどもその足跡が明らかでなかった人物、例えば醸造家の馬場昌久について、諸方の町村史を当ってみたり、馬場醸造のボイラーマンの子孫と交流したりする機会を得て、その人物像と事績が相当に明らかになった事である。田丸氏は馬場昌久が昭和9年に 「野付牛民政倶楽部」 の幹事長であったことを明らかにしているが、私は、昭和初年の地方政党政治が華やかな活動をしていたが、野付牛では屯田出身の地域有力者が政友会を支えて勢力を誇示したとばかり思っていたので、市街地の伊谷半次郎や河西貴一を除いて民政党は劣勢であったと判断していたものであった。ところが馬場の活躍を知ると、野付牛では、民政党が政友会に拮抗し農村部—政友会、市街地—民政党という地方政党政治の図柄があったのでは?と思うようになった。この点では田丸氏の今後の考証に期待するのである。
 また最近は 「北見の書店・本屋」、「上杉病院」 のことから、「きたみ写真ことはじめ」、大正時代野付牛駅前で食堂を開いていた児玉兼次のブラジル移住後の消息など、市史編さん室を訪れた人々との交流や田丸氏の北見市以外の釧路図書館などの史料検索から得た数々の新事実が捉えられているのである。編さん室という好個の職場にあって、これからも新しい史実の発掘、紹介に努めていただきたいと思うのである。
 それから平成18年の北見市・常呂町・端野町・留辺蘂町の合併と共に誕生した新北見市は、旧常呂町という近代以前の北方史の宝庫を擁することとなったので、『ヌプンケシ』 にも明治以前の北見地方の母村であった常呂史に目を配っていただきたいと思うのである。


画像花束とイス『ヌプンケシ』 の愛読者として
前川満夫

 私の手元に2冊の 『ヌプンケシ』 綴りがある。同じものが2冊ということではなく、1冊目のファイルが一杯になったので次からは2冊目のファイルに綴じ始めたという2冊である。
 1冊目は153号で終わっている。中途半端な号数だが、「馬場酒造店」 のシリーズがちょうど一区切りついた所なので、そこで区切った。               
 2冊目は154号から現在197号まで、時々、調べ物のため、この2冊を捲返(めくりかえ)すことがあるが、断然、2冊目の方が見やすい。
 綴じるなら多くても100号(100ページ)が限度かなと思う。
 「転勤奥様の学習会」 「ミント宅配便」 「観光協会の資料作り」 等の資料を作るために何度 『ヌプンケシ』 を捲ったことか。その頃はまだ100号たらずだったので、厚さはあまり気にならなかったが、それでも必要項目を探すのに苦労した。それで自分なりに項目ごとの目次を作ってその場をしのいだ。途中、項目ごとに分けたらより探しやすくなると思ったが、号数がばらばらになるのも残念と思ってやめた。
 しかし、今読み通してみてもこの 『ヌプンケシ』 は他にない卓越した市史裏面史(表か?)であると思う。
 間もなく200号というが、これだけの物を纏めあげた執筆者の苦労は並たいていのものではなかったろうし、また、誰にでもできるというものではないと思う。
 執筆対象事案を探し、その資料を集め、その関係機関や、関係者に繋ぎを取って調査項目の枝葉を広げていくという、マニュアルが分かっていたとしても、簡単にできるわけではない。
 それを200号まで出し続けた市史編纂室と執筆者のみなさんに敬意を表すると共にご苦労さま、そして今後もよろしくと申しあげたい。
 またこれは、個人の力のみでなく、「市史編纂室」 という組織があり、その組織を通して調査・研究を進めてきたからこそ、ここまで続けることが出来たのだと考える。その意味で永年に渡って 「市史編纂室」 を設置し続けてくださった市当局にも厚く御礼申し上げると共に、これも今後ともよろしくと、一市民としてお願いするしだいである。
 


画像箱とお花 「ニュース」の継続的な発行を

訓子府町 橋爪実

 『ヌプンケシ』 200号発行、おめでとうございます。
 近年は月2回発行の 『ヌプンケシ』 を拝見し、知らないことがいかに多いか改めて思い知らされておりますと同時に、「記録」 を残す大切さを実感しています。
 継続して 「ニュース」 を発行されることに、より意味があると思います。
 300号、400号をめざして、今後も継続的そして定期的に発行されることを期待しています。
 

《中庭だより》☆月2回発行を維持し、2ページの紙面を埋める為に格闘を続けて早くも200号になりました。100号発行は平成17年(2005)7月15日で、当時は 『現代史』 編集の真最中で特集を組む余裕はありませんでした。今回は多くの方々に玉稿を頂き、感謝いたしております。

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