ヌプンケシ201号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.201
タイトルヌプンケシ 
平成22年10月15日発行

◎野田儀三郎か?野田義三郎か?(1)

 現在、市史編さん事業として『北見市史』年表編からはじめて既存市史の人名索引を作成する作業を進めていますが、これが大変なのです。『北見現代史』を除き、これまで刊行された『北見市史』・各『町史』刊行物では正誤表を全く作成していませんでしたから、次から次へと「怪しい人名」が出てくるたびに、職員が頭をかかえている始末です。市史・町史が刊行された時点で、間違いを明らかにしなかった「付け」が、今ごろになって出てきているようです。
 たとえば、ニュース196号で『歴史の散歩道』を引用して、オーロラカメラ会の創立メンバーとして「農学士で農場主だった野田儀三郎」を紹介しましたが、資料によっては「野田義三郎」と名前が違っていて、首をかしげることがしばしばありました。今回はその「野田」氏の名前調査から派生して、判明したことをレポートすることにします。
◇『北見市史』下巻では・・・
 野田氏の経歴については、鈴木三郎先生が昭和58年(1983)12月発行の『北見市史』下巻で次のように紹介されています。少々長い引用になりますが、お許しください。
 「野田農場主野田儀三郎は、北見市農牧場中異色の存在である。彼は明治十年八月、滋賀県蒲生郡日野村(現日野町)に生まれた。家は代々酒造を業としていた。駒場の農科大学(後の東京帝国大学農学部)農芸化学科を出ると、明治四十一年五月十五日付で平塚の県立農業学校に平塚の県立農業学校に奉職した。最高学府を出たからであろう。就任すると早くも教頭職に就いている。/明治四十三年二月一日三重県立農業(農林が正しい−引用者)学校に校長として転任した。同校は現在三重県立久居農林高等学校となっているが、いま同校に残された職員調べと学校沿革史によれば、受持科目は修身だけで専門科目は受け持たない校長職に専念していた。(中略)大正四年三月三十一日、まだ三十八歳という若さで校長の地位を離れている。/何故この若さで退職したか、その理由や経緯を知ることはできないが、理由の一つとして、北海道の新天地で理想農園設立の心が働いていたのではなかろうか。退職後二年間何をしていたか不明である。おそらくこの二年の間に、遠大な北方開拓の構想を共にする人物については、最終的に彼が在職した平塚と久居校の教え子に働きかけたようで、実際に入地したのは全部教え子達であった。(後略)/大正七年野付牛高台に三〇〇町歩の払下げを受けると友愛農場と名付けて、教え子と共に入地した。これが野田農場である。最初に彼と共に入地したのは、三重農学校の卒業生、井上惣治郎・坂口善三郎で、少し遅れて、杉井市佐衛門夫婦であった。農場の直接管理はこの三名によってなされ、野田夫婦は市街地仁頃道路に面した一角に居住した。(中略)ついには吉野政雄一人が農場管理人として営農一切を担当することになった。こうした管理側が校長とその教え子によって構成され、かつて、学校で収得した学問を現実の場で具体化しようという理想に燃えた集まりであったことから、町の人々からは『学園農場』とも呼ばれた。(後略)」しかし、除虫菊栽培に力を注いだものの借財がかさみ、「返済が行き詰った結果土地は拓銀の所有に移り、のち殖産無尽会社に移管され、それを北川宇蔵等の仲介によって各個に売却されることになって野田農場は解消するに至った。(後略)」
 野田氏は陸別に木工場を創業しましたが、火災で閉鎖するなど不運が重なりました。
 「野田はまた、農場の末期に、樺太敷香も三千町歩の山林の払下げも受けている。その時小作投入や諸設備の計画、設計書を吉野政雄が書いたそうであるが、山林を処分した後は農耕地とすることは不向きであることが判然としたのでそれも結実せずに終わっている。かくて理論の実証と友愛精神の基づく開拓を胸に抱き、農場完成後は教え子にそれぞれ分譲して、彼の夢の足跡をこの地に残そうと野付牛に来たのであるが、いずれも結実を得ぬままに去って行った。夫婦には子どもが無かったので、東京に居を移してから数年で没し、残された夫人はその後ピアノの教授で生計を立てていたが、戦後間もなく夫の後を追ってしまったので、野田家に関する書類等は皆無となり、彼の農場に対する真の感懐を今は聞く術もない。」
 この記述の多くが聞取りによるものらしく、はっきりした年月日の判らない文章になっています。ただ、野田氏が「大正」・「昭和」地区に、300町歩の広大な農場を所有していたことは鈴木三郎先生が作成した地籍図で知ることができます。(下の地図は、そのコピーです。)

◇『大正百年史』『大正区地誌』『北見市史』では
野田農場の地図 ところで、平成21年(2009)11月発行の『大正百年史』を見ると 野田氏に関して次の記述がありました。「明治45年(大正元年)/ 農学士野田義三郎氏、 学田地として払下げを受けたる土地を64戸分、分割売払いする。現在の第1部落東部地域に当る。」
 この記述は、 昭和37年(1962)12月発行の『大正区地誌』と全く同じで、その編集後記によれば「昭和二十四年度分までは、昭和二十四年十月二十二日編集の大正区沿革史を軸として最編纂されました。若干入植年氏名のあやまりを訂正したるに止まる。」とあり 筆者は未見の『大正区沿革史』が種本のようです。ここでは野田氏の名前は、人偏のない「義三郎」になっています。
 この『大正百年史』 『大正区地誌』を信ずると、野田氏は三重県立農林学校校長在職中の大正元年(1912)に、まだ払下げを受けていない野田農場の大正区の土地を売払ったことになってしまいます。これは一寸無理があるようで、『北見市史』下巻を執筆した鈴木三郎先生も『大正区地誌』を資料として収集しているのですが、情報として採用していません。
 昭和32年(1957)6月発行の『北見市史』には「大正区」の記述の中で、野田氏について次のように触れています。「野田儀三郎がいわゆる野田農場を経営したのは大正六年であるが、当初は学徒園と称されるほどで農学校の卒業生を入地させて開拓に努めたが、経営に利非ずで昭和に入って間もなく中止の状態となり、昭和十九年自作農創設措置法によって小作人の手に帰したのであった。」また、同書の「昭和区」では「農場には野田、石川の両農場があって石川農場は石川岩太郎が大正4年に移住し開拓に着手したといわれている。(中略)。また野田農場は野田儀三郎の経営に係り、これは後に吉野農場と呼ばれるようになった。」とあります。
 この昭和32年版『北見市史』では野田氏が農場経営を始めた年は「大正六年」で、『北見市史』下巻の「大正七年」と一致しません。先の大正区の「大正元年」も入れると、農場開設に三つの説があることになります。整理が必要なので、後で調査することにしましょう。(続く) 

 

《中庭だより》☆私事旅行中の9月24日午後、江別市にある北海道立図書館で『小樽新聞』大正3年(1914)1〜5月分のマイクロフィルムを閲覧してきました。収穫は同年5月11日に272戸が焼失した「野付牛大火」記事で、小さく不鮮明ですが火事場跡の写真3枚と16歳の放火犯人の顔写真が出てきたことです。他所には、まだまだ未発掘の史料があるものです。

☆ 『ヌプンケシ』200号記念特集〜『読者から一言』(2)〜
 前号に引続き、今号も読者の方々の玉稿を紹介させて頂きます。


画像お花北見と東京の架け橋
日本大学法学部教授 新谷眞人

 『北見現代史』に執筆させていただいたご縁で、ヌプンケシを毎号送っていただいている。平成18年(2006)に、15年間住み慣れた北見市を離れた。ヌプンケシは、私にとっては北見と東京を結ぶ架け橋となっている。
 ヌプンケシの楽しみ方はいろいろある。第1は、豊富な写真を通して、明治・大正・昭和の北見を想像する楽しみである。風景、建物、人々の服装、表情などから、往時の街の雰囲気がしのばれる。昭和初期と思われる模擬国会の写真など、治安維持法の時代とはいえ、まだ大正デモクラシーの言論の自由が残っていたことをうかがわせる(ヌプンケシ149号)。
 第2に、北見市民なじみのお店の由来を知る楽しみがある。その典型が「書店・本屋は文化の灯火(1)〜(3)」(182〜184号)であるが、この他にも、史稿を併せ読むことによって、北明軒、マルヨ、まるじん、ホームランなどの飲食店が、れっきとした老舗であることが分かるのである(福澤明 『料理人長尾市治郎と北見料理学校』 史稿38号参照)。
 第3に、東京の地名を発見したときはうれしくなる。「杉町八重充と徴兵制(1)〜(10)」(ヌプンケシ167〜176号)は、神田駿河台の明治大学が舞台である。この地は、私の母校である中央大学、また現在の勤務先の日本大学などの学生街であることは、ご存知の方も多かろう。大正時代に、戦後の全共闘運動にも匹敵する学生運動が発生していたとは驚きである。馬場酒造店の主人が後年東京・三鷹で軍需工場を経営したこと(165号)、福村書店の下斗米ミチさんが神田まで本の仕入れに行ったこと(183号)なども、興味深かった。
 ヌプンケシは、単に北見限定の郷土史にとどまらず、時間的空間的な広がりをもっている。執筆のご苦労はいかばかりかと察せられるが、200号以降も末永く継続していただきたい。
 


画像お花『ヌプンケシ』200号記念によせて
金田明夫

 『ヌプンケシ』200号、心からお祝い申しあげます。
 伊藤静致さんからは、昭和初期の北見市街図が届けられ、合わせて見ると、野付牛時代に弟子入りした私としては、懐かしさに涙が出ます。私の弟子入りした店は、三条西四丁目、都工芸社です。若気の至りで、関社長に逆らったこともありましたが、今となればお詫びして盃を交わしたい思いです。
 たまに、「野付牛の景色を描いてほしい」と言われますが、当時の街のたたずまいは見られなくなりました。訪ねるとすれば、旧ピアソン邸か、牡丹園か、野付牛公園ぐらいでしょうか。今となってスケッチを描いておけばよかったと悔やんでいますが、詮なきことです。
 それと、郷土にとって忘れてはならない人の名が、忘れられているのが残念の極みです。
 ある宗教の布教の方々が見えた時、ピアソンさん、坂本直寛さん、唐笠学さん、のことを訊いたところ、どんな人か分かっていないようでした。郷土の宗教運動の大先輩を知らないようではお話になりません。
 また、地元の若い人に、井上伝蔵さん、中浜明さん(ジョン万次郎の孫)、本庄陸男さんについて訊いたところ、分かっていません。学校でも教えられなかった、ということです。
 過去について知らないのは、郷土の大先輩のことばかりではありません。私自身、私の父母のルーツを知りませんでした。ところが平成11年、釧路開発建設部より、根室市落石の土地(約35坪)が道路になるので売ってほしいという書状が来て驚きました。実はこの土地は曽祖父名義の土地ですが、曽祖父も、祖父も、父も死んでいるので、生き残った子孫の私の土地になるわけで、私は全く知らなかったことです。さらに驚きは、送られて来た戸籍謄本で曽祖父の生地は、元北見工大の神田建策先生らの調査で明らかになった、南部大一揆のあった、岩手県三閉伊地方(久慈市から釜石市にわたる)の人であることが判りました。
 母は秋田県北秋田郡出身で、名作『蟹工船』の作者小林多喜二と同じ地方の出身です。父母は二人とも農民出身、農民はしぼるだけしぼられ、先祖からの土地に生きられなくなり、新たに生きる道を求め、北海道へ渡った流民です。
 先祖がどう斗い、なぜ流民になったのか、過去の歴史を知ることで、私らの行く道も開かれるのではないか——。
 そういうことからも、『ヌプンケシ』の存在は貴重な深い意味をもっています。
 屯田兵開拓の地と顕彰されて来た野付牛に、屯田兵の子どもで大正時代に学生運動を起こし、米国留学で徴兵を逃れた杉町八重充という人が居たことも、『ヌプンケシ』で初めて知り、驚きました。
 「過去の歴史に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる。」
 このヴァイツゼッカー元ドイツ大統領の言葉を座右の銘にして、『ヌプンケシ』を大事に読ませて頂きたいと思います。
 


画像バラの花束と手紙とポスト近   況
酒井義廣

 何時もヌプンケシをお送り下さり誠に有り難う御座います。『北見現代史』発行後もヌプンケシを発刊し、広く史料を集め将来の北見市史の精確を期する為の活動に深く敬意を表します。
 北見市史稿で5作物を担当させて頂いてから早くも十年目を迎えました。市史編さん室の皆さん初め清水先生や諸先輩に教えられた事を生かして、その後も機会ある度に史料集めをしてきました。それらの中で特に興味を持ったのは、何故北見の特産の薄荷と玉葱が、他の産地との競争に打ち勝って日本一にまで成ったのか。北海道の農業は開拓使の奨励策に因って発展してきたが、薄荷と玉葱だけは特別な奨励なしで、開拓者の熱意で取り組み普及が進みました。調査を進める中で導入経過を調べるには、市町村にどの様に入って行ったのかをまず全道の市町村史で調べる事にして取り組みました。
 たまたま昨年子どもの勧めで半世紀以上住み慣れた端野から札幌の北区あいの里に転居したので、札幌黄の名の残る玉葱の発祥の地で、古い産地の資料を時々調べ生産地を訪ねたりしています。幸いに北海道教育大学図書館が比較的近いので時々利用し、北海道大学図書館、北海道立文書館、道立図書館、札幌市立図書館にも足を運んで、それぞれの特徴ある蔵書をしらべ始めています。先日も上川支庁最北端の中川町史で大正7年に開道50年北海道博覧会に出品した三好清一の「はっか取卸油」が金牌を受賞しているのを知り、薄荷は北見と思い過ごしてしまわ無いよう注意しなければとの思いを強くしました。
 北海道への薄荷の導入は八雲・永山・日高どの地でも山形からなので、山形の状況を調べるべく、江別にある道立図書館に行き山形県史を借りた時、最新版か古い物か聞かれて、両方全部見せて欲しいとお願いした所、長い間待たされてキャリイに何十冊も積んで来られて、結局時間が足りず、史料がたくさんある事を知っただけでまた出直す事に成って終いました。
 まだ何年も掛ると思いますが、産地も訪ね納得の行くまで調べたいと考えています。
 

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