ヌプンケシ205号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.205
 タイトルヌプンケシ
平成22年12月15日発行

◎昭和8年(1933)の『釧路新聞』から、2件

 10月30・31日と2日間私用で釧路市へ行きましたので、ついでに市立釧路図書館に立寄って『釧路新聞』の昭和8年2月〜12月分(ただし、8月分欠号)のマイクロフィルムを閲覧してきました。そこで2件わかったことがありましたので、今回はその報告をします。
1.明石医院長明石勝麿氏の死亡年と死亡原因
 大正8年(1919)に当地で外科病院を開業した明石勝麿氏の略歴について、『北見医師会創立記念誌—100年の医療史—』では次のように記述されています。
 「明治14年9月10日、大分県にて出生/明治24年 渡道/明治36年内務省医術開業試験合格/医籍16983号/明治37年 陸軍見習士官/明治38年 陸軍三等軍医/退営後、勲6等瑞宝章/明治39年4月、礼文郡礼文町にて開業/大正8年9月、大通り東5丁目(地図で確認したところ東6丁目が正しい。—引用者)で開業/昭和7年 オートバイで往診中の事故で死去、51才」
 『北見市史』年表編でも、「昭和7年」の項で「この年、明石病院長明石勝麿、オートバイで往診中、事故で逝去」とあります。
 ところが、昭和8年3月23日付『釧路新聞』の「野付牛便り」で次の記事を見つけました。
 「野町明石病院明石勝麿氏は十八日突如永眠された 同氏は大分県生の衛生学部出身にて明治三十七年三等軍医に任官 日露戦役の功に依り正八位勲六等を賜はり退役 香深医院を経営し大正十年当町に転住医院を経営せるが 頗る信望篤く衆望を荷負て居つた 葬儀は二十六日午後一時自宅出棺聖徳寺にて仏葬の由である」
 この記事では、明治37年(38年が正)、大正10年(8年が正)と間違いがありますが、オートバイ事明石勝麿氏写真故には何も触れていません。この記事でいけば通説で昭和7年死亡とされていたのが、1年後の昭和8年になります。
 医療史、年表編の種本は『北見医師会会報』に掲載された藤田英夫氏の「昔話 北見の医者(完)」らしく、そこに次にように書かれています。
 「大正八年、軍医出身の明石勝麿は日露戦争後、礼文町香深より来町して大通東五丁目(今の日商鉱油)に医院を開業し、主として東地区住民の医療に尽しましたが、昭和七年、その頃としては珍しい交通事故で亡くなりました。子息の勝英氏が札医大産婦人科教授として活躍中であることは皆様御承知の通りです。」(昭和47=1972年7月1日発行『会報』NO.10)
 右の明石医師の写真は、大正11年(1922)10月発行の『北見之人』にあるものです。

◇小林九郎氏の「わが回顧録」では・・・

 この藤田氏の「昔話 北見の医者」に続いて、『北見医師会会報』には小林病院の創始者、小林九郎氏が書かれた「わが回顧録」が連載されており、昭和48年(1973)8月15日発行『会報』NO.12に掲載された、その2回目に明石医師について次のように書かれています。 
 「明石勝麿先生は、現在札幌医科大学産婦人科学教授として名声を轟ろかして居らるる明石勝英先生の父君である。
 予が北見に来た当時は大通り東5丁目辺りに開業して居られたがその頃すでにオートバイを乗り回して、昼夜を分たぬ往診診療を実行なされ市民の感謝の的であった。
 先生は前後二回、交通事故にて頭部を強打し、そのうち一回は頭蓋底骨折を起し外聴道を通って著しく出血し、意識不明で生命が危ぶまれたことがあった。
 予が主治医の役を仰せつかったのであった(後略)。
 幸にして、さしも重症なりし明石先生もすっかり健康を恢復せられ、従前の如く医療に奔走されたのであるが、その後、頭部顔面より体幹に及ぶ猛烈な丹毒に罹られて昇天なさったのであった。(編者註・昭和7年逝去)」
 この「回顧録」で小林九郎氏は、明石医師が赤く患部が腫れあがる丹毒(連鎖状球菌が傷口から入って、皮膚や粘膜を冒す化膿性の急性伝染病)で死亡したことを、明記しています。
 また篤農家であった茶木与三氏の日記にも、昭和8年3月26日のこととして「大通東六丁目明石医院主明石勝麿氏亡 午後一時出棺」が記され、『釧路新聞』の記事と一致しました。
 以上で死亡年が昭和8年で、オートバイによる事故死でないことがはっきりしましたから、年表も「昭和8年(1933)3月18日、明石医院長明石勝麿、丹毒で急逝。」と書直しが必要です。
2.野付牛病院の2回目の火事は、昭和8年12月17日か?16日か?

 

 戦前の大病院であった野付牛病院の1回目の火事が「大正2年(1913)10月27日」に起きたことは、茶木与三氏の日記を根拠に当ニュース187号で明らかにしたところです。
 同病院の2回目の火事について『北見の消防』の巻末にある年表では、昭和8年(1933)「12.17 野付牛町2条東1、野付牛病院診療室より出火(午前9時30分)、同病院全焼、人員被害なし」
と書かれています。
 ところが昭和8年12月19日付『釧路新聞』では、「野付牛病院/二、三階を焼く/レントゲン室失火」との見出しで次の記事がありました。
 「野付牛町二條通西一丁目(東1丁目が正しい。—引用者)に巍然として聳ゆるモンダン型の鉄筋コンクリート建の代表的建物野付牛病院の内部レントゲン室の上部二階室より十六日午前九時三十五分失火し二階および三階の各階に燃え廣がり硝子窓より盛んに黒煙を吹きつつあるを大通り西一丁目の常備番屋の火見より発見盛んにサイレンを鳴らし二台の常備自動車ポンプは時を移さず駈けつけ外部の窓硝子を破り消火に努め二階三階および天井裏を焼き半焼の儘にて同九時五十分鎮火した発火原因および損害取調中なるが同火災に奮闘した消防夫一名負傷した」
 ご覧のとおり、この記事では「12月16日」に火事があったことになっています。
 『北見市史』年表編でも昭和8年(1933)「12.16 野付牛病院火災、損害額2万円」とあります。その年表編の基になっている年表用抜書きカードをみたら「資料名、出典」は「北見毎日/昭8.12.17」となっており、日にちは微妙なことに「12・16or17」とありました。そこでこの情報源の『北見毎日新聞』の現物を、中央図書館の閉架書庫に入って捜し出してみました。
 その昭和8年12月17日付新聞の記事本文には火災発生時間を「今朝九時三十分頃」と書いてあり、これだけ読むと17日に火事が起きたと思われますが、新聞下段にある「近火見舞いお礼」広告には「本日」「十六日」と明記されています。『北見の消防』の編集者は記事本文だけを読んで17日にし、年表編の編集者は広告の方を採って16日にしたということでしょう。
 筆者も『釧路新聞』の記事とあわせて、「12月16日」が正確な火災発生日と判断しました。
 これまで何回も書いてきたとおり回顧録、聞取り資料、新聞記事の類は参考になりますが、そのまま鵜呑みにできないので、手間でも複数資料に当り検証する必要があるのです。(完)
 

 

《中庭だより》☆本年も残り半月になりましたが、皆様にとって本年はどんな年でしたか。本紙は何とか200号に達し、調査で新しい発見もあり、それなりに収穫があった年でした。年末で忘年会なども多々ありますが、あまり無理をしないで、皆様お元気で新年を迎えましょう。

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