ヌプンケシ208号

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市史編さんニュース NO.208
タイトルヌプンケシ 
平成23年2月1日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(3)

◇屯田兵家族の出産〜『萩の根は深く』から
萩の根は深く屯田兵の妻たち表紙 昭和49年(1974)当時まだ存命していた屯田兵の妻からの聞取りを記録しているのは、昭和50年7月、北見女性史研究会によって発刊された『北見の女』第2号で、 その時の取材を基に時間をかけてより深く掘り下げたのが扇谷チヱ子さんの力作 『萩の根は深く/屯田兵の妻たち』(昭和61年=1986年10月発行)でした。その中から出産に関する証言を次に引用します。
 「明治三十六年元旦、嫁いで五年、数え二十一でリヨさん(明治16年=1883年6月10日生れ−引用者)は母になった。 /お産は座産だった。お産の介助人は経験者であるいわゆる『とりあげばあさん』。リヨさんの時は、姑さんと親しかった道路を挟んで一軒置いた堀畑のばあさんが駆けつけた。/雪道を転がるようにして来てくれた時、すでに男衆の手で北側の四畳半の部屋の畳は上げられていた。畳の下は荒い板一枚で床下が見えた。そこから寒風が容赦なく吹きつける。その板の上に筵が敷かれた。/『昔はな、寝て産まないの。今聞いたらあんた犬畜生産むみたいなもんだ。畳めくって、畳めくってだぞ、下さ筵敷いて藁敷いてな、藁の上さこんだ灰(あく)敷いてその上さまた藁敷いて、藁の上さ座って産んだ。手や足出したら悪いと怒られ、横になっても怒られる。後ろに米俵一つ、横に一つずつ置いて眠る時もそのままよしかかって(よりかかって)寝た。(産後−引用者)二十一日たつとようやく布団に寝た。』」
 「富山出身の屯田兵の妻坂井イト(明治二十四年生まれ)さんも次のような話をしてくださった。/『畳上げて筵半分に切って、藁を焼いて灰にして、それを下に敷いて子どもをもつんだよ。おりものがあるから三日間は藁を取り換えないよ。後に俵を置いてね。わしらの国では寝かせたら罰が当たると言って一週間は座っているんだよ。(後略)』」
 「イトさんと同じ富山県出身の屯田兵の家族の子小川ツタ(明治三十八年生まれ)さんは、/『お座りして、ちゃんと足のきびすでしっかり肛門押えて、だからお座りしたんだよ。産の重い人は天井からぶら下げた綱や荒縄にぶら下って力入れた。(後略)』」と話しています。
 紙面の都合で割愛しますが、妻たちは大変な思いをして子どもを産んだ後も「血の穢れ」のタブーから、風呂に入れない、囲炉裏やカマドに近づけないなど、一定期間不自由な生活を強いられたことも同書には書かれていますので、機会があったら読んでみてください。
 開拓当時、出産は命がけの仕事でした。同書に記録されているとおり、開拓期は屯田兵であってもお産婆さんよりも近所の「とりあげばあさん」に世話になった方が多かったように思われます。そこにはお産婆さんの数が絶対的に少なかったこととあわせて「産婆に支払う、お金がもったいない。お金がない。」という経済的な理由もあったと推測されます。
 しかし、屯田兵の家族であれば風呂組、井戸組など助け合う組織もあり、また中隊付きの軍医もいて衛生知識を学ぶ機会もあったでしょうから、まだ恵まれていたとも言えます。
 それに比べると、体一つで開拓に来た一般開拓民の妻は大変苦労したようで、農作業時に産気づき、妊婦が一人で畑の中で子どもを産んだとか、夫が取上げた話が伝えられています。

◇とりあげばあさん
 昭和10年(1935)頃の山梨県での「とりあげばあさん」の様子を、昭和54年(1979)6月、当時の朝日新聞編集委員、藤田真一氏が著した『お産革命』から見てみることにしましょう。
 「トリアゲバアサンたちの産ませ方は、全て、座産であった。彼女の目撃談によると、この近在では、産屋をつくらず、畳の上でも産ませなかった。娩出が近づくと、納戸の畳をはねあげ、下の板張りの上にムシロやゴザを敷き、そこにお産ぼろを並べた。その中央に、踏み台またはコタツやぐらを置いて、産婦はそれに両手をかけ、両ひざ立ちに腰を浮かせた姿でいきんだ。トリアゲバアサンは後ろから背中、腰をさすってやり、いきみがくると、後ろ抱きにして腹をさすってやり、娩出の呼吸を教えた。『浣腸なんてしなかったから、いきむと、大便はでるし、全体にきれいな仕事じゃないから、よほど気丈で、好きな人でないと、トリアゲバアサンは務まらなかったねえ』/産湯をつかわせるときは、敷きぶとんを三つ折りにしたものに、腰をおろして、その前に置いたタライの湯に自分の両足を浸し、両ひざそろえた上に、赤ちゃんを滑らないように抱き据えて、手ぎわよく洗った。その足がまた、ひどく汚かった。」
 昭和10年頃の本州の農村でこの状態だったとすれば、明治30年(1897)代の野付牛での様子も、江戸時代も同じだったことでしょう。
◇産婆は中国伝来の言葉
産湯の図
産湯の図
 前掲の『お産革命』には、「産婆という言葉も、中国から伝来した。文化六年(一八〇九年)賀川有斎の書いた『産術論』の『坐草の巻』に初めてでてくる。徳川四代将軍家斉の時代である。このほか、助産にあたる婦人の名称として、乳媼、座婆(または坐婆)、婆子、穏婆、看産、などの言葉があった。天保四年(一八三三年)に、平野重誠が著した、わが国最初の助産教科書は『坐婆必研』と題した書物であった。(後略)」「お産の介助に『助産』という言葉を初めて使いだしたのは、天保の初年、産婦人科医の賀川南龍であった。しかし『助産婦』という名称は、明治二十五年(一八九二年)、大阪の緒方正清がしだしたものであり、それまでの文献には、産婆、穏婆の文字が多くみられる。」とあります。
 引用のとおり産婆という言葉の初出が賀川有斎(=賀川玄吾)の『産術論』の「坐草の巻」であるというのは、大正8年(1919)に刊行された緒方正清著『日本産科学史』で記されて以来定説になっているようですが、平成14年(2002)4月、集英社新書から刊行された杉立義一著『お産の歴史』を見ると、「産婆という呼び名が日本で最初に使われたのは、賀川玄悦の『産論』巻二の中においてである。その中で玄悦は、『世にある産婆は皆、夫を亡くした老婆であり、生活のためにやむを得ずこの業をしているが、ただ沐浴や清拭のことをするのみであって、産婦の生死、手術の成否について、共に相談するには値しない』といったようなことを記している。」と書かれていました。加川流産科の創始者、賀川玄悦が『産論』を発表したのは明和2年(1765)のことですから、44年も時代をさかのぼることになります。(上の図は『お産の歴史』から転載)
 なお、この産婆という呼び名が庶民の中に定着したのは、江戸中期以降だそうです。(続く)
《中庭だより》☆久永万里子さんには上杉病院以来、お世話になっていますが、今回引用した『お産革命』も久永さんから教えて頂きました。32年前の出版ですから絶版で、筆者は未見でした。同書には「絶滅寸前」のお産婆さんの証言が多数あり、今回の特集の参考になりました。
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