ヌプンケシ209号

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市史編さんニュース NO.209
タイトルヌプンケシ 
平成23年2月15日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(4)
◇産婆と行政官布告

 江戸時代、貧困な農村で子どもが生まれても育てる力のなかった親は、人為的に流産させるか、産後すぐにお産婆さんに頼んで赤ん坊を窒息死させる「間引き」をしました。また都市においても、生活に困窮した下級武士や町民など育児が出来ない人々が存在し、性風俗が乱れた中で堕胎を専門とする医師や産婆もおりました。それらは必要悪として黙認されていました。
 ところが明治に入って、それまでの無秩序を規制するため、明治元年12月24日(新暦・1869年2月5日)、産婆に対して堕胎や売薬などを禁止した、次の行政官布達を発しました。
  近来産婆之者共売薬之世話又ハ堕胎之取扱等致シ候者有之由相聞ヘ以之外之事ニ候元来産婆ハ人之性命ニモ相拘不容易職業ニ付仮令衆人之頼ヲ受無余儀次第有之候共決シテ右等之取扱致間敷筈ニ候以来万一右様之所業於有之ハ御取糺之上屹度御咎可有之候間為心得兼テ相達候事
 これを簡単に読下すと、次のようになります。「近来産婆の者どもが売薬の世話や堕胎の取扱いなどを致していると聞くが、これはもっての外の事である。元来産婆は人の生命にも拘わる容易ならぬ職業につき、たとえ多くの人々からの頼みを余儀なく受ける次第があっても、決してそのような取扱をしてはならない筈である。これから万一その様な所業があれば、お取り糺しの上、きっとおとがめがあるだろう。そのため、心得をかねて知らせておく。」
◇「医制」の制定
北の命を抱きしめて 北海道女性医師のあゆみ表紙 平成18年(2006)5月、北海道女性医師史編纂刊行委員会から発行された 『北の命を抱きしめて/北海道女性医師のあゆみ』に書かれた佐藤京子さんの論文によれば、「明治元年3月、明治政府は正式に西洋医学を採用することを宣言し(太政官布告第141号)、同12月には将来の医師免許制度確立の方針を示し(太政官第1039号)、積極的に西洋医学の振興を図るに至った。」とあります。
 その方針にもとづき医事制度を確立するために、明治7年(1874)8月18日、文部省が「医制」を制定しました。 「是は文部省の統轄の下に、西洋医学に基づく医学教育と医師開業免許制度を設定し、産婆・鍼灸業者の取締り、薬事・衛生制度を整えるなど、広く衛生行政全般について、政府の基本的な考え方を明らかにしたものであった。当初は東京・大阪・京都三府宛に達され、可能なことから実施する方針がとられた。/まず急がれたのは、医師の試験制度であった。明治8年2月、医制に基づいて三府に医師資格試験の実施が達された。開業医師たるためには解剖・生理・病理等の科目試験に合格し開業免状を得ることが必要となったのである。内外科のほか産科、眼科、口中科(歯科)等の専門免状も設定された。また、従来の開業医師は無試験で開業を継続できることも定められ、旧来の制度との調和も配慮されていた。同年5月医術開業免状書式も定められた。翌6月、医務・衛生事務は文部省を離れ、内務省の管轄となった。」(『北の命を抱きしめて』より)
◇「医制」と産婆の職業化
 村上信彦氏(1909年〜1983年)の名著『明治女性史』の中巻後篇「女性の職業」では、「産婆つまり現在の助産婦が職業として公然としてみとめられたのは明治七年八月十八日、文部省の医制五七ヵ条(76か条が正−引用者)が布達されてからである。」「共同体の相互扶助の性格が続くかぎり、謝礼もおぼしめし程度の低いもので一定せず、それだけで生計を立てる見込みは少なく、副業にとどまる率が多かったと思われるからである。それがいっぺんに職業化したのは、法令で免許制度に改めたことと、西洋医学の導入で出産費用が高くなり、産婆の謝礼も金銭化されて一定化してきたためであった。」と書かれています。
 その「医制」で産婆はどのように規定されたのか、次にその要点を見てみましょう。
 「明治七年の医制発布によって、産婆にかんする規定が設けられ、その仕事内容、資格についての方針も明示された。
 (1)産婆は、四〇歳以上で、婦人・小児の解剖生理および病理の大意に通じ、産科医の眼前において平産一〇人、難産二人の実際の取り扱いをして得た実験証書を所持する者を検して、免状を与えることを建前とする。
 (2)経過措置として、当分の間、営業の産婆は、その履歴をただして仮免状を授けることとし、医制発布後一〇年間においては、産科医等の実験証書を検して、免状を受けることとするが、産婆のない地方においては、その他の者にも仮免状を与えることがある。
 (3)産婆は、急迫の場合のほか産科医あるいは内科医の指図を受けずに、みだりに、手をくだしてはならない。
 (4)産科器械を用い、または患者に、方薬を与えることを禁ずる。
 以上の規定は、直ちに実施されることはなく、明治三十年代に入るまで地方の道府県取締規則に委ねられていた。」(『お産革命』から) 
 産婆の年齢資格を40歳以上としたのは、当時開業していたお産婆さんが高齢であったことを配慮したからだそうで、既存の産婆を活用しながら、新制度に移行しようとしたのでしょう。
 なお、これらは「建前」で実際は道府県取締規則で現実的な対応をしていたということです。
 端野のお産婆さん、舛川ツネさんの出身県である山形県では、明治9年(1876)に産婆の取締規則、営業規則が制定されたそうです。『新端野町史』ではツネさんは15歳で産婆の資格をとったことになっていますが、ツネさんが15歳になった年は慶応3年(1867)で、明治になる前で免許制度がない時代です。それよりは24歳になる明治9年に、既存の産婆として仮免状か、講習を受けて正式の免状を得たと考えた方が良いようです。
 各地で産婆の再教育が行われたようですが、次のような状態であったようです。
 「新潟県でも、明治九年から、産婆講習は新潟病院で始まった。しかし教科書を読める人がいないので、聴講心得の第一条『此講義ハ産科ノ大要ヲ口授シ産婆ヲシテ勉メテ暗記セシムルモノトス』とした。『教室に集まったトリアゲババたちは、不慣れな術語を音読されても、意味のわからぬことが多かったし、疲れや退屈で居眠りするものもあったらしい。阿部おろじ産婆は、村上町で唯ひとりの産婆であったが、郡役所で産婆試験を受けることになった。無学のため、筆答ができないので、口答の試験であった。難産のときの処置法を問われ、【種油をひきます】と答えたのには、係官もあいた口がふさがらず、それでも十数年間の経験を有するので、みごとに合格と決まった。講習にしても、試験にしても、形式的なものだったということができる。免許の大安売りである』」(『お産革命』から)(続く)
《中庭だより》☆この特集関係で各種資料を見ているのですが、インターネットにある情報は簡単に入手できてヒントになりますが、内容は孫引きが多く、しかも書き込んだ人の間違いなどもあって、資料として信頼性がありません。面倒でも別の資料で確認する必要があります。
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