ヌプンケシ211号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.211
タイトルヌプンケシ
平成23年3月15日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(6)
◇全国統一の産婆規則制定

 それまで地方に委ねられていた産婆に関する規則が全国統一され、明治32年(1899)7月19日、勅令345号「産婆規則」として制定されました。その要点は次のようなものでした。
(1)
 
産婆を営む者は産婆試験に合格した20歳以上の女子で、産婆名簿に登録を受けた者であること(第1条)
(2) 産婆試験は地方長官が行う。(第2条)
(3) 産婆試験を受けるためには1年以上の学術を修業した者であること(第3条)
(4) 産婆名簿は地方長官が管理する。(第4条)
(5)
 
産婆は妊産婦・褥婦または胎児・新生児に異常が認められるときは医師の診療をうけさせ、自ら処置してはいけない。ただし、臨時救急の手当てはできる。(第7条)
(6)

 
産婆は妊産婦・褥婦または胎児・新生児に対して外科手術を行うことや産科器械を使用すること、投薬すること、またはこれらを指示することはできない。ただし、消毒・臍帯の切断・浣腸の類はできる。(第8条)
(7)
 
産婆は産婆名簿に登録していない者に妊産婦・褥婦または胎児・新生児の取扱いを任せてはならない。(第9条)
(8)
 
産婆が3年以上営業していない場合、身体障害で営業できないと判断される場合は、地方長官は産婆名簿登録を取消すことができる。(第14条)
(9)

 
産婆名簿の未登録者、登録を取消された者、産婆業を禁止・停止されている者が産婆業を行った場合や、修業を詐称した者、第8条・第9条に違反した者は50円以下の罰金刑に処す。(第16条)

 附則では、産婆規則施行以前に内務省や地方庁の免状や鑑札を受けて、現に営業している者は6か月以内に地方長官に願い出れば、産婆名簿に登録される(第19条)としています。また経過措置として、産婆に乏しい地域に限ってその履歴だけで5年以内の期限で産婆業を免許し、産婆に準じて産婆名簿に登録することができる(第20条)としました。
 同年10月1日の産婆規則の施行にあわせて、9月6日には「産婆試験規則」、「産婆名簿登録規則」が公布されました。その「産婆試験規則」の条文を見ると、受験するには「産婆学校産婆養成所等ノ卒業証書若ハ修業証書」、「産婆若ハ医師二名ノ証明アル修業履歴書」が必要で、試験は「学説」と「実地」の二つあり、「学説」でお産に関する医学・衛生知識を試験し、これに合格しなければ「実地」試験を受験できないようになりました。「実地」では「実地試験」若しくは「模型試験」がなされました。村上信彦著『明治女性史』中巻後篇には、大正の初期に愛知県で産婆試験を受験した人の、次の体験談が記されています。
 「大勢の試験官がズラリと並ぶ前に一人々々呼び出され、一つの答をするかしないうちにもう次の問題が出される。あちらからもこちらからも、次から次の問題が出される間に必死に答えるのだが、目が廻っていまにも倒れそうであった。また実施試験のとき、模型を使って分娩の処置をするのに、あがっていたせいか、右手で処置するところを左手でしてしまった。『君、手がちがうじゃないか』と言われてハッとしたが、咄嗟に『はい、私は左っかち(左利き)です』と言って、『あ、そうか、それじゃ仕方ないナ』というわけで、そのまま左手で処置をつづけてパスすることができた」 
 「産婆名簿登録規則」は、産婆規則第1条に基づく登録に関する規則で、地方長官が管理する産婆名簿に登録すべき事項、様式などが定められました。
◇北海道では
 産婆規則の北海道での施行については、前号で紹介した北隅静子さんの論文「近代前期北海道における産婆の実態」で、次のように書かれています。
 「勅令公布後の北海道における産婆規則は、先に述べた内務省令第四七号(産婆試験規則−引用者)にもとづき、一九〇〇年(明治三三)庁令第七号による産婆試験規則施行細則が制定された。細則は、産婆試験願の様式を定めて毎年二回試験を実施、試験の応答は筆記試験のみになり文字の書けないものは受験できなくなるなど試験に関する規定を強化している。その後、一九一八年(大正七)庁令第一一七号産婆規則施行細則が定められた。庁令は、産婦取扱簿の備え付けの義務、警察官吏による取扱簿の検閲など妊産婦の取扱状況を把握するための細則で、これまで全く規制されていなかった産婆営業についての初めての法令である。」

産婆試験志願者および合格者数(全道)
志願者 合格者 合格率
1908年(明治41) 39 32 82パーセント
1909年(明治42) 35 18 51パーセント
1910年(明治43) 58 39 67パーセント
1911年(明治44) 101 57 56パーセント
1912年(明治45) 140 118 84パーセント
1913年(大正2) 121 76 63パーセント
1914年(大正3) 182 109 60パーセント
1915年(大正4) 177 91 51パーセント
1916年(大正5) 159 62 39パーセント
1917年(大正6) 203 91 45パーセント
1918年(大正7) 215 118 55パーセント
1919年(大正8) 201 116 58パーセント
1920年(大正9) 243 95 39パーセント
1921年(大正10) 223 71 32パーセント
1922年(大正11) 248 102 41パーセント
1923年(大正12) 258 100 39パーセント
1924年(大正13) 360 153 43パーセント
1925年(大正14) 324 130 40パーセント
1926年(大正15) 371 129 35パーセント
出典)『北海道庁統計書』

 このように産婆規則によって、経験による旧来の産婆(旧産婆)から、制度として医学知識を修業して学説試験・実地試験を受けた産婆(新産婆)に主力が変わることになりました。また、産婆は警察の監督下におかれ、開業には産婆名簿に登録されていることが絶対条件になりました。
 左の表のとおり、北海道では産婆資格取得の「志願者は年々増加しており、一九〇八年(明治四一)と一九二六年(大正一五)を比較すると一〇倍近くに達している。これは、一九世紀末から資本主義の発達と共に女子教育が進展し、女性の社会進出が顕著になっていく流れの中で、産婆という職業がこれまで多くの女性達に受け継がれてきた職業であるというだけでなく、年齢、結婚、育児などにもあまり左右されることなく家庭でも営業できるものであったことから志願者が増えたと考えられる。合格者数については、年をおうごとに合格率が低くなっており、資格取得が厳しくなっていく様子が見える。これが助産技術の向上につながっていったと思われる。このように試験に合格した産婆は、経験のみで分娩介助を行っていた時代とは異なり、近代における女性の職業として社会的に大きく評価されていったと思われる。」(「近代前期北海道における産婆の実態」より)
 村上信彦氏は前掲書の「産婆の職業化」の章で「自由業で自宅で開業できること、ほとんど資本の要らぬこと、年をとってもつづけられることなどの点で、女の職業としてはめずらしい安定性があった。だから志望者は絶えなかった。彼女たちのほとんどは小学校を卒業しただけの貧しい境遇の娘で、重い月謝の負担に耐え、歯を食いしばってむずかしい解剖学や生理学や分娩論・産褥論・育児法・看護法などと取り組んだ。目的があればこそだが、意志がつよくなければできない修業であった。」と締めくくっていますが、筆者も全く同感です。(続く)

《中庭だより》☆速いもので新年になって3月も半ばです。これから一層、定年退職に関係した送別会やら、4月1日以降は歓送迎会など飲む機会も増えるでしょう。筆者もお酒は嫌いではありませんが、ほどほどにしょうと思っています。二日酔いなしで、快適に暮らしましょう。
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