ヌプンケシ214号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.214
 タイトルヌプンケシ
平成23年5月1日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(9) 

◇野付牛での産婆試験
 これも久永さんから頂いた資料の中に、産婆試験に関係した告示が2件ありました。
「北海道廰告示第百七十九號/明治三十三年三月北海道廰令第七號産婆試験規則施行細則第一條ニ依リ産婆試験施行ノ期日及場所左ノ通定ム/大正九年三月十二日 北海道廰長官 笠井信一/記/一 産婆試験挙行場所  札幌區、函館區、旭川區、室蘭區、野付牛町」とあり、その産婆試験挙行期日は次のとおりでした。
「札幌區        大正九年四月十九日(學説)・同年同月二十日、二十一日、二十二日(實地)
 室蘭區及旭川區  同年同月二十三日(學説) ・同年同月二十四日(實地)
 函館區及野付牛町 同年同月二十七日(學説) ・同年同月二十八日(實地)」
 翌年大正10年(1921)8月26日付、北海道廰告示第553号で同じく産婆試験の場所と期日の告示があり、そこにも札幌・函館・室蘭・旭川にならんで「野付牛町」が記載されています。
 道内の大きな都市に並んで産婆試験の施行場所に当地が選ばれたのは、当時の野付牛が「医者の町」と言われたほど、明治44年(1911)創立の野付牛病院をはじめ、オホーツク管内で一番病院があったためでしょう。特に産婦人科医師吉田角次氏の存在が大きかったと思われます。
◇吉田角次氏のこと
 その吉田氏の略歴を、平成14年(2002)3月に発行された『北見医師会創立記念誌-100年の医療史-』は次のように紹介しています。「明治21年 11月11日、栃木県にて出生/大正4年 東京帝国大学医学部卒業 同大付属病院産婦人科副手に就任/大正7年 1月、小樽市植田病院に招聘され来道/大正8年 8月、3条西4丁目に吉田産婦人科病院開業/昭和34年 屯田町に移転診療所を開設、自適の生活を送る/昭和41年 78歳にて没」
 なお、右の写真は同『医療史』掲載のものです。
吉田角次氏写真 大正15年(1926)12月発行の『東北海道の人物』で、吉田氏は次のように人物紹介されています。
 「君は産婦人科に卓抜せる手腕を有する名醫として令聞が高い。就中、帝王手術輙ち腹部切開に妙を得、大正十二年四月、世界に於ても稀なる五胎分娩の術に成功し、該畸形児の死體を標本として帝國大學醫科大學に寄附したるがその手術の鮮やかさは同業者をして驚異の目を睜らしめ、猶、之より先、大正八年、野付牛町に獨立開業以來、現在に至るまでの間君の執刀に依つて開腹施術せられたるもの三百餘の多きを達し、正に東北海道第一と稱せられてゐる。
 君は明治廿一年十一月十一日栃木縣鹽谷郡大宮村に生れ、祖は素多郡高田村郷士である。栃木縣立中學校を卒へて第一高等學校に入り、斯界の重鎮木下、磐瀬兩博士指導の下に、産婦人科専攻、熱心研鑽の功を積み、学窓を出でて滿三年の大正七年新春早々、早くも小樽植田病院の聘に應じて副院長の地位を占め勤續一年にして翌八年三月、野付牛町に轉住、自ら病院を新築、開業するに至つたのである。」
 昭和9年(1934)12月発行の『北見大観』では、大正「七年一月小樽市植田病院に招聘され同年野付牛に産婦人科病院を獨立開業し現在に至つてゐるが開業以來産婆講習を開講し自ら講堂を設備し無月謝にて指導養成しすでに百名に近き有資格産婆を社会に送ってゐる」とあります。
 吉田病院の開業は大正7年とありますが、大正15年12月発行の『野付牛町誌』では創立「大正八年一月十五日」で、昭和31年(1956)10月発行の『北見名士録』でも「大正8年現地開業」
とありますので、月日はともかく、大正8年(1919)に開業したのは間違いないでしょう。
 東京帝国大学で先進医学を修めた医者であった吉田医師の名声は高く、大正15年(1926)4月に吉田病院の隣に一軒置いて開業した小林九郎氏は「予が開業した当座、吉田病院の隆盛は物凄いものであった。―午前九時ともなれば、近隣の宿屋から患者が列をなして押し寄せて来た、といっても過言ではなかった。」と『北見医師会会報』掲載の「わが回顧録」に記しています。
 超多忙なのに、無月謝で産婆講習をした吉田医師は当地方のお産婆さんにとっては大変ありがたい存在であったと思いますし、産婆試験をする行政側も無視できなかったでしょう。
 その吉田氏が、何故北辺の野付牛で開業したか、藤田英夫氏が『北見医師会会報』の「北見の医者」(九)で「留辺蘂の親戚の縁で来町」と簡単に記していますが、詳細は不明です。
◇吉田夫人は神近市子と親友
 関連するかどうかは分かりませんが、民衆史運動の指導者として活躍された(故)小池喜孝先生が、昭和49年(1974)7月発行の『北見の女』創刊号に、吉田氏に関して次のエピソードを紹介されています。なお、小池先生の略歴については、ニュース62号を参照してください。
 「渡道する直前、私は出版社で、神近市子さん訳の、コフマン『世界人類史物語』の刊行を手がけていた。送別会を開いてくれた神近さんが、/北見には、津田(英学塾)時代からの親友がいるから」/と紹介してくれたのが、吉田薫さんだった。/現在小林病院が建っている一角に、吉田産婦人科病院があった。薫さんは、角次院長の夫人だった。私の息子二人も、そこで誕生した。/吉田夫妻は、私が入っていた時に、差し入れしたり、面会に来てくれた人なの。『当局から、にらまれはしませんか』と言うと、『いやぁ、わたしは自由業ですから、どうってことないです』ってご主人がいうの。あのころ、大変な時代でしょう。うれしかったわ」/神近さんが、アナーキスト大杉栄との恋愛のもつれから、葉山、日蔭の茶屋で斬りつけたのは、一九一六年(大正5年-引用者)のことだった。投獄された彼女を見舞ったのが吉田夫妻だった。吉田夫妻は、リベラリストだったのだろう。」
 戦後代議士にもなり、「売春禁止法」制定に活躍した戦前からの女性運動家、神近市子ともご夫婦で親交があったとすれば、吉田氏が社会改革に理解があったと見て良いでしょう。先の引用にあった無月謝の産婆講習もそうした考えの表れであったと思われます。
 吉田角次氏は大変な蔵書家でも知られていました。菅原政雄先生は平成8年(1996)7月発行の『北見の文学ものがたり』「森良玄のこと」で、次のように書かれています。
 「吉田産婦人科病院の院長吉田角次は、いろいろな本を貸してくれた。吉田角次はリベラリストとして地元の教育や文化の向上に尽くしていた。姉が吉田産婆学校に通っていたこともあって、吉田角次のもとに出入りするようになったが、お前ならいくらでも本を貸してやるといわれ、よく本を借りに行った。その中に『世界大思想全集』というのがあって、マルクス主義などもここで触れた。大正堂(本屋)の主人原さんは『経済学批判』をくれた。」
 この森良玄とは、昭和2年(1927)に野付牛中学校を卒業後、樺太で労働運動に飛び込み、後に共産党に入党し、北海道地区責任者になった人物で、小説家小林多喜二とも交流があり、小説『工場細胞』『オルグ』に登場する闘争指導者「河田」のモデルとされています。(続く)

《中庭だより》☆紙面の都合で割愛しましたが、北見教育界の長老だった紺野茂氏の回想録『あ
かね雲』には吉田氏が最高裁長官田中耕太郎と親友であったことも書かれています。吉田氏は
色々な面でもっと早くに顕彰されるべき人物でした。しかし、今や史料と情報が・・・・・・ (ため息)
NO.215へ 

 

 

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館