ヌプンケシ215号

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市史編さんニュース NO.215
 タイトルヌプンケシ
平成23年5月15日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(10) 

◇一枚の記念写真から

一枚の記念写真 右の写真は、久永万里子さんがお持ちの写真をコピーさせてもらったものです。この写真には達筆な添え書きがあって「お世話になりし昇は/このとおり成育いたしました/貴田岡昇/大正五年五月廿日誕生/大正六年五月廿日/第一回誕生記念撮影/重信/江口産婆様」と読めました。新生児の死亡率が高かった昔は、1歳まで健康に育ったことはお祝いすべきことであったのでしょう。この写真は可愛い赤ちゃんを抱いている、凛とした雰囲気の奥さんのご家族が江口産婆様(久永さんのお祖母様)に感謝を込めて贈呈したもののようです。
 そこでこの母子について調べてみました。貴田岡(きたおか)さんというお名前はあまりないので、戦前から置戸で郵便局長を歴任した貴田岡照見氏のご遺族にお問合せして調べたところ、次のことが分かりました。
 この女性は、明治21年(1888)12月5日、岩手県下閉伊郡大澤村に生れ、照見氏の弟、貴田岡重信氏と大正2年(1913)11月に結婚した(旧姓・箱石)フミさんでした。昇氏は次男で、昭和9年(1934)3月に野付牛中学校を卒業後、医学を学び、最終的には岩手県立病院名誉院長になっています。照見氏のご遺族の話では、フミさんは意外にも北見市内でお産婆さんをしていて、貴田岡家や親戚の方々もお産でお世話になったということでした。
 そこで古い資料をみたら、確かに昭和8年(1933)11月発行の『野付牛名鑑』の産婆業に「五條西二 貴田岡フミ 86(電話番号-引用者)」とあり、昭和4年発行の『野付牛明細図』上にも「貴田岡」がありました。昭和24年(1949)に、フミさんはご家族と岩手県に転出しました。
 開業時期は不明ですが、こうして一枚の写真から野付牛のお産婆さんの一人がわかりました。
◇端野で開業したお産婆さん
 平成10年(1998)10月発行の『新端野町史』から、端野で開業したお産婆さんを紹介します。
 「二区では、産婆簔口遊亀重が大正一四年(一九二五)一二月に、二区三三六番地に開業している。彼女は二区屯田兵奥田乙松の長女であるが、向学心に燃え京都に三年間留学、野付牛に帰り更に一年間産婆の助手を務めた後開業したのである。二三歳のときであった。その後、昭和四〇年(一九六五)には、同所に助産所を開設して、妊婦の入院助産を取り扱ったが、同五四年(一九七九)八月高齢のため廃業した。この間五五年にわたって実に四二二〇人もの赤ん坊を取り上げた。(後略)」
 「また、宮本スエが二区四五八番地で(端野小学校前)で昭和五年(一九三〇)に産婆業を
開業している。同二八年(一九五三)に端野を去るまで、簔口産婆と共に活躍したが、この間約二〇〇〇人の赤ん坊を取り上げた。また、戦中、戦後を通じ、村婦人会の役員や会長を歴任して女性の地位向上のため力を尽くし、受胎調節指導員としても活躍した。
 このほか、産婆として村内に開業した人は、千田千代子(昭和七年ごろから、同二四年まで協和および川向に居住)、角よう(昭和一五年〔一九四〇〕ごろ緋牛内に居住)などの名が残っている。」
◇昭和になってからのお産婆さんの数は・・・
 次にまた『野付牛町勢一班』で、昭和になってからの野付牛(北見自治区)でのお産婆さんの数を拾ってみましょう。昭和2年(1927)5月発刊の『野付牛町勢一班』では27人。昭和3年5月発刊では、29人。昭和4年5月発刊では、37人。昭和5年5月発刊では、同じく37人。昭和6年6月発刊では、20人。昭和7年6月発刊でも、20人。とんで昭和9年版では、18人となっています。昭和8年の『野付牛町勢一班』は鈴木三郎先生が遺された資料からは出てきませんでした。あと昭和10年・11年の『野付牛町勢一班』はあるのですが、そこにはお産婆さんだけでなく医療関係のデータは記載されていませんでした。
 昭和4・5年と野付牛町のお産婆さんの数は37人とピークをむかえるのですが、昭和6年にはガクンと落ちて20人になり、昭和9年(1934)には半分の18人に減りました。これは昭和4年(1929)10月に起きた世界恐慌による不景気の影響がずれて、お産婆さんの数に反映したようです。庶民はお産に金をかけるだけの余裕をなくした、ということでしょうか。
 昭和12年(1937)以降の『野付牛町勢一班』が見当たらないのは、戦時体制になって紙不足になったこともありますが、軍事的見地から各種統計情報が秘密にされたからとも思われます。
◇各種名鑑に載った産婆業
 次に、戦前の名鑑2冊に名前が載っていたお産婆さんを見てみることにします。
 昭和8年(1933)11月発行の『野付牛名鑑』には次の8名の名前が見えます。
    一條東三  竹中モト  139(電話番号-引用者)
    五條西二  貴田岡フミ   86
    八条西二  岡リキ
    兵村二区  田丸リツ
    観兵通    小野田ますを
    四條西四  橋本イツ
    六條西六  赤野とみよ
    一條東四  加藤きよ
 昭和13年(1938)11月発行の『野付牛商工名鑑』には、次の7名の名前がありました。
    五ノ西一  松原八重子
    四ノ西四  橋本イワ
    一ノ東三  番場フク
    一ノ東四  加藤キヨ
    五ノ西二  貴田岡フヨ(フミの誤記-引用者)
    二ノ西七  赤野トミヨ
    新町     岡クキ(リキの誤記と思われます。-引用者)
 これらの名鑑は広告的なものでしたから、掲載されていないから開業していないということではありません。もっと多くのお産婆さんがいたことはたしかです。
 また、昭和46年(1971)12月発行に発行された『北見の今昔』に掲載された古老の回顧録には「竹中産院、橋本産院、貴田岡産院、岡産院」の名前があがっています。(続く)

《中庭だより》☆東日本大震災以来、全国で自粛ムードですが、5月の連休はいかがでしたか。
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