ヌプンケシ216号

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市史編さんニュース NO.216
 タイトル ヌプンケシ
平成23年6月1日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(11) 

 当地におけるお産婆さんに関する世界大戦開戦前後の情報は、今のところ見当たりません。仕方がありませんので、今号は関係図書類で国内の動きを概観してみることにしましょう。

◇「人的資源」確保と厚生省

 昔から「貧乏人の子たくさん」と言われるように、貧困家族での多産は貧困に拍車をかける要因にもなり、産児制限は労働者の生活防衛、母性保護からも必要なこととして大正時代後期、生物学者山本宣治等を中心に、避妊知識普及による産児調整運動を展開しましたが、危険思想とみなされていました。昭和3年(1928)代議士となった山本は治安維持法改悪に一人反対し、右翼テロで翌4年3月5日暗殺されてしまいました。
 日本は昭和6年(1931)9月満州事変を起こして太平洋戦争敗戦(1945)までの、いわゆる「15年戦争」に突入しますが、その過程で戦争勝利に総力戦体制構築が必須とされ、その重要な一環として「人的資源」の確保が叫ばれ、兵力および労働力の維持・拡大のために人口政策が重要な課題となり、産児調整運動は国体維持に反するとして全面的に弾圧され、消滅しました。
 昭和12年(1937)4月5日、保健所法が公布され、7月15日に施行されました。これにより壮丁の体位確保と人的資源確保の力点をおいた衛生指導機関である保健所が府県と六大都市(東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜)におかれ、そこでは母子保健が特に重要な事業とされました。同年7月7日には日中戦争に突入し、日本は一層戦時色を強めていきました。
 「その頃、国は毎年行われていた徴兵検査でのわが国男子(日本国民男子の満二〇歳に達した者の兵役検査)の体力の年毎の減退を憂いて、関係筋、陸軍省からの要求で、国民の体力増進のために厚生省を設置しようとした。/こうして昭和十三年の一月十一日に厚生省が誕生した。」(1998年12月発行、関口允夫著『理想のお産とお産の歴史』より)

◇『産めよ殖やせよ国のため』

 昭和になって日本は毎年200万人台の出生数がありましたが、日中戦争の影響で昭和13年(1938)は1,928,321人と、前年昭和12年の2,180,734人に対して252,413人の減になりました。昭和14年(1939)の出生数も1,901,573人となりました。
 昭和14年9月30日、「戦時下の人的資源確保を目指す厚生省予防局民族衛生研究会」が主催して「若い男女の結婚をいかに指導すべきかについて広く民間の衆智に聞くため」「優生結婚座談会」が開催され、その結果に基づいて結婚指導案が練られることになり、また指標の「結婚十訓」の原案が示された、と同年10月4日付『東京朝日新聞』にあります。その後、具体的な月日が分かる資料は出てきませんでしたが、ナチスの優生学に倣って次の『結婚十訓』が作成され、昭和15年(1940)5月1日厚生省が東京日本橋の三越に開設した国立優生結婚相談所の指導方針となりました。
 一、一生の伴侶に信頼できる人を選べ   二、心身共に健康な人を選べ
 三、悪い遺伝のない人を選べ        四、盲目的な結婚を避けよ
 
五、近親結婚はなるべく避けよ         六、晩婚を避けよ
 七、迷信や因襲にとらわれるな         八、父母長上の指導を受けて熟慮断行せよ
 九、式は質素に届けは当日に        十、産めよ殖やせよ国のため
 平成16年(2004)8月発行の加藤秀一著『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか』によれば、国民優生連盟が昭和16年(1941)刊行した結婚十訓の解説書『結婚のすすめ』の「はしがき」に次の文章があるそうです。
 「いかに人口増加が大切であるにしても、それが粗製濫造であってはなりません。弱い子どもや精神の劣った子どもを儲けたのでは、親自身が困るのみならず、国家としても足手纏ひとなって十分な能率を上げることが出来ません。そこに結婚に対する優生思想といふものが必要となってくるのであります。」
 このような露骨な差別思想が「科学」を装って、個人間の結婚指導に入りこんできたのです。

◇優良多子家庭表彰

 昭和15年(1940)5月19日付の『東京朝日新聞』に「"子宝部隊長"を表彰」という見出し記事がありました。それよると、厚生省は人口増加策として優良多子家庭表彰要綱を策定して、5月20日各地方長官に通知することにしたとあり、その表彰の基準は、父母を同じくする満6歳以上の嫡出子10人以上を育て、子どもに死亡者がなく、心身共に健全、父母・子ども共に性向善良であることとされ、表彰開催日は明治節の11月3日とされています。
 上の記事どおり、同年11月3日には10,336家庭が表彰され、表彰はその後も毎年継続されました。最初の表彰者の半数以上は、農村で経済的に『中』以上の家庭でした。(昭和15年11月5日付、『東京朝日新聞』より)
 戦中の農家で10人前後の子たくさんな家庭が多くなったのも、こうした国策の結果でした。この厚生省のキャンペーンの結果か、昭和15年(1940)の出生数は2,115,867人に回復しました。

日本一 日本一
日本一  

 ところで、先日昨年8月発行の早川タダノリ著『神国日本のトンデモ決戦生活』を見ていましたら、左の写真が出てきました。モトネタは、国立国会図書館がインターネットで公開している「『写真週報』に見る昭和の世相」にある昭和17年(1942)11月4日発行第245号のようです。
 写真説明に「北海道・北見の富永」さんとあるので、最初は当市にいた家族かと思いましたが、筆者は今までこの家族のことを全然知りませんでしたので、中央図書館に行き新聞で確認してきました。同年10月20日付『東京朝日新聞』を子細に見ると、この年表彰を受けたのは1,502家庭(前年2,145家庭)で、14人の子どもがいる表彰家庭は4家庭あり、筆頭に富永林治さん一家がありましたが、住所は「紋別郡上渚滑村」でした。つまり、上の写真説明にある「北見」とは「北見国」のことだったのです。何でも複数資料照合による確認が必要ですね。
 当市の記録には見当たりませんが、産婆業としては厚生省の「産めよ殖やせよ」運動は大歓迎すべきことで、お産婆さんたちは喜んで国の人口政策を支持したに違いありません。(続く)

《中庭だより》☆3月に『開拓血涙史』、4月に『屯田兵生活考』と貴重な屯田兵関係資料複製を手作業で続けています。現在は伊藤公平氏のご好意で、所蔵するNHK札幌中央放送局放送部、昭和43年5月発行『屯田兵~家族のみた制度と生活~』B5判325ページを複製中です。
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