ヌプンケシ217号

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市史編さんニュース NO.217
 タイトル ヌプンケシ
平成23年6月15日発行

◎『子なさせ地蔵』とお産婆さん(12) 

◇国民体力法と国民優生法

 次に国民体力法と国民優生法について、平成12年(2000年)発行の藤野豊著『強制された健康/日本ファシズム下の生命と身体』でみることとしましょう。
 「国民体力管理法案と国民優生法案は共に米内光政内閣により一九四〇年(昭和一五)の二月から三月にかけて議会に提出され、国民体力管理法案は名称を国民体力法に修正されたものの、いずれも可決された。国民体力法は、満二〇歳未満の『帝国臣民』に、市町村・学校・企業などが体力検査をおこなうことを義務付けるもので、検査の項目は身長・体重・胸囲・視力・色覚・聴力・既往症・ツベルクリン反応・トラホーム・寄生虫病・脚気・栄養障害・齲歯・そのほか疾病異常・運動機能(荷重速歩)・概評におよび、国民体力法施行規則によれば、疾病異常として結核性疾患・トラホーム・性病・寄生虫病・精神障害・脚気・歯疾・形態異常について検査し、とくに性病については一七歳以上の男子には性器の検査をおこなうよう規定していた。」/「一方、国民優生法はナチスの遺伝性疾患子孫防止法をモデルとしたもので、遺伝性と決めつけられた病者・障害者に断種をおこなうことをうたっていた。一九四一年(昭和一六)七月一日から施行され、優生保護法に取って代わられる一九四七年度までに五三八人が、この法律により断種を受けた。その大部分は精神障害者である。(岡崎文規〈日本における優生政策とその結果について〉『人口問題研究』六一号、一九五五年八月)この数字は、一九三四年だけでも五万六二四〇人が断種されたナチス・ドイツとは比較にならないものである。しかし、数の多寡だけで評価することは危険である。侵略戦争を遂行するために優秀な民族を増殖させようとする優生学的視点が共通していることを見落としてはいけない。国民は出生前は国民優生法で、出生後は国民体力法で『人的資源』として国家の管理を受けたのである。」

◇人口政策確立要綱

 昭和16年(1941)1月22日、「人口政策確立要綱」が閣議決定されました。その「趣旨」によれば東亜共栄圏を建設して末永く健全に発展することは皇国(日本)の使命であるから、人口政策を確立して人口の急激にして永続的な発展増殖と資質の飛躍的な向上を図る共に、東亜(アジア東部)における指導力を確保するためにその配置が緊急に必要であるとしています。
 前記の趣旨に基づいて、その「目標」は「一、人口ノ永遠ノ発展性を確保スルコト/二、増殖力及資質ニ於テ他国ヲ凌駕スルモノトスルコト/三、高度国防国家ニ於ケル兵力及労力ノ必要ヲ確保スルコト/四、東亜諸民族ニ対スル指導力ヲ確保スル為其ノ適正ナル配置ヲナスコト」を達成することとして、内地の目標人口を差当り昭和35年(1960)には総人口1億人とし、外地(植民地)の人口は別に定めるとしています。
 この「人口増加ノ方策」として妊産婦・乳幼児の保護、独身者への課税考慮、産児制限の禁止、多子家庭の保護、結核対策などの諸施策が持出されました。これに基づいて厚生省は、男子25歳、女子21歳までの早婚奨励の通達を出し、大日本婦人会や大政翼賛会も、結婚促進の運動をおこしました。
 そうしているうちに、日本は昭和16年12月8日アメリカとの戦争に突入、最初は連戦連勝したものの、昭和17年(1942)のガダルカナルの戦い以降、劣勢に陥り、海上補給路の確保も出来ぬ状態で、国内は慢性的な物資不足の状態になりました。
 母子死亡による人的資源の損失を防ぐため、昭和17年7月13日、全ての妊娠を届出させ、医師や助産婦による定期健診を義務づけた、戦後の「母子手帳」の原型にもなった「妊産婦手帳」が実施されました。定期健診を受けさせるために、この手帳があれば当時の食糧配給で特別に多めに支給され、地区によっては「鯉」や「乳製品」の特別配給の特典をつけました。
◇結婚の強要

 前号で紹介した『神国日本のトンデモ決戦生活』によれば、戦時下、大日本婦人会が結婚を強要する運動を推進していたことを示す記事が、機関誌『日本婦人』に見られるそうです。
 「未婚者台帳で結婚応召/日婦松本支部では、同市方面委員会と協力して、勝ちぬくための人口増強に、結婚も応召の気持ちでと、大いに斡旋に乗出すことになつた。その方法は、全市各区毎に未婚者台帳を備へつけ、区内の適齢未婚者は尽く『おめでたへ総進軍』をさせずばやまぬ意気込みで、この台帳の整備のため、目下同市日婦会員は大童である。〔昭和十八年六月号〕」
 「適齢未婚者の一掃へ/日婦土浦支部では、六月二十一日理事会を開催、戦争生活の徹底、弾丸切手の消化など協議したほか、結婚委員三十名を委嘱することになり、方面委員と積極的に協力して、二十五歳以上の男子と二十三歳以上の女子未婚者の一掃をすることとなった。〔昭和十八年九月号〕」
 「不妊会員を無料診察/日婦岡山支部では、結婚三年にしてなほ子宝なき会員を集め講演会を開催、診察券を交付して診療、人的資源増強に努めている。〔昭和十八年九月号〕」
 女性が未婚や不妊では肩身の狭い異常な時代だったのが以上の記事から分かりますが、こうした結婚の強要は社会的に「戦争未亡人」を大量発生させる要因ともなった、とも言えます。

◇戦時中のお産婆さん

  前号で引用した『理想のお産とお産の歴史』に、東京の杉並区上井草で助産所を開設していた明治生れのお産婆さん、羽生たきさんの戦時中の回顧談が、次のとおり紹介されています。
 「助産所の庭に防空壕を三つも掘った。空襲の最中でも『お産迎えがあった』――重要書類を子どもに背負わせて『若しお母さんが帰ってこなかったら、これを開けて。お金も入っているから、親戚の人にみて貰って行動しろ』って言いましてね。お産から帰ってくると、『凱旋だよ』なんて――昭和十九年疎開命令。助産婦は疎開しないよう言われたが、戦火を避け、東京から出ていく人もあった。
 『それで、三鷹、吉祥寺、荻窪と広い範囲を自転車で飛ばすのです。夜の警戒警報のときにも電話がかかってくるので、よく出掛けた』
 灯火管制で、道路は真っ暗で、星明りを頼りに、自転車で飛び回った。

 街角に警防団の人が、立っていて、『どこへ』と聞かれると『これからお産です』『ご苦労さまです。お気をつけて』と言われた。『お産を一月に、百人以上も取り上げたこともある』」
◇妊産婦の集団疎開
 前掲同書には、人口資源確保と妊産婦の保護救済による防空活動の低下を考慮して、昭和20年(1945)3月9日の東京大空襲後、東京から甲府市への妊産婦の集団疎開が、3月25日50名、5月8日80名と2回実施されたことが記されていて、「記録では終戦迄に、約十名の出産があった」そうで、その疎開先の甲府市も7月6日に空襲され、妊産婦が収容されていたお寺も全焼しました。もはや、日本全土で安全な場所は日本が降伏するまで無かったのです。(続く)

《中庭だより》☆夏らしくなってきましたが、テレビを見ると被災地ではライフラインをはじめ、原発事故等の緊急課題が山積で、その最前線に立つ自治体職員の苦労は大変なようです。それを想うと、清らな自然に囲まれたオホーツク管内で安全に暮らしていることに感謝ですね。
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