ヌプンケシ221号

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市史編さんニュースN0.221

 

タイトル ヌプンケシ

 

平成23年8月15日発行

 

 


 

◎野付牛写真業の草分け、吉田登世氏の消息(1)吉田登世氏写真
 6月23日午後、インターネットで特集「きたみ写真ことはじめ」の191~193号を見た札幌在住の吉田優理さんという女性から電話がありました。
 お話を聞けば、野付牛写真業の草分けだった吉田登世氏のお孫さんというではありませんか。筆者は小躍りしたい気分になりました。というのも吉田氏は 明治42年(1909)に野付牛で写真館を創業、大正末年頃まで営業していたことは資料から判明しているものの、その後の消息は全く不明の人物だったからです。右は大正11年(1922)当時の吉田登世氏の写真です。
 今回は吉田優理さんから電話でお聞きしたことと、お姉様の吉田昭子さんとも記憶を確認し合ってから、後日送って頂いた資料で分かったことを報告します。
◇登世は、正確には「とせ」
 まず、吉田氏のお名前の「登世」の読み方ですが、192号で筆者は「とよ」と推測していたのですが、優理さんのお話では「とせ」だそうです。名前の読みは難しいですね。
 「曽祖父 喜平は伊勢、桑名藩出身で、函館戦争で旧幕府軍として戦いましたが、負傷し、同地で旅館を営む吉田家に2年間かくまわれて、婿養子となり、本姓は『加藤』でしたが『吉田』になったそうです。」
 明治元年(1868)榎本武揚が率いる旧幕府軍は蝦夷地を占拠し、官軍と函館を中心に戦争するものの、翌明治2年(1869)5月には降伏しました。その渦中に、吉田さんのひいおじいさんもいたとは歴史ドラマみたいですね。
 「網走の写真屋の草分け、吉田登一は祖父=登世の兄で間違いありません。登一は函館生れで、どこで技術を習得したかは不明ですが、網走で写真屋を開業しました。」
 出典・根拠は不明ですが、平成20年(2008)3月発行の『網走市年表』には「明治31年(1898)/この年、吉田登一が北見町(現・網走市-引用者)南通で写真開業」と書いてあります。
 「登世の生年月日は、『ヌプンケシ』192号で引用された『北見之人』では『明治14年(1881)10月15日』となっているそうですが、正しくは『明治15年(1882)9月15日』です。」
◇近衛兵として日露戦争に出陣
 「祖父は日露戦争に近衛兵として出陣して、金鵄勲章(きんしくんしょう)を貰ったのが誇りでした。」
 日本がロシアに宣戦布告したのは明治37年(1904)2月10日ですから、登世氏が21歳の時となります。寺田近雄著『完本 日本軍隊用語集』を見ると、近衛兵は天皇を守る親兵で全国から品行・学術・容姿・体格の最優秀の若者が選ばれ、その選抜は郡や市から一人ともいわれて、近衛連隊に入ることは一族一家の名誉であったそうです。同氏が属した近衛師団は、日露戦争の奉天会戦で大変勲功があったそうですから、それで金鵄勲章をもらったのでしょう。
 その「金鵄勲章」といって何のことか分からない人が多いと思いますので、次に山川出版社の『日本史広辞典』で、その説明を見てみましょう。
   第二次大戦前の戦功勲章。一八九〇年(明治二三)二月『金鵄勲章創設ノ詔』により制定。神武天皇東征の故事にちなんだもので、武功抜群の軍人に下賜された。生存者への叙勲は将官・左官・尉官・准士官・下士官・兵の階級ごとに等級が定められ、功一級から功七級にわかれていた。九四年九月金鵄勲章年金令で終身年金が支給されたが、一九四一(昭和一六)六月以降年金制は廃止されて一時賜金に切り替えられた。四七年廃止。
 近衛兵で最高の勲章も授与され、戦前は年金まで当っていたわけですから、登世氏が誇りにしていたのも分かるような気がします。前ページ肖像写真の胸にも金鵄勲章が光っています。
◇写真技術は東京で
 「写真技術の習得について、『ヌプンケシ』192号では北海道写真界の先駆者である函館の田本研造の影響下で修業したと推測されていますが、祖父は網走に妻子を置いたまま、写真技術を学ぶため東京で3年間修業した、と私たち家族は聞いています。
 それで、当時としては本州に引けをとらない写真技術があったのではないでしょうか。
 修業後、登世は網走に帰り、それから野付牛に進出して吉田写真館を創業しました。」
 近衛勤務は4年間だったそうですから、日露戦争が終わったのが明治38年(1905)で、明治39年頃に復員し、国からもらった報奨金を元手に3年間東京に修業に出たとすれば、27歳になった明治42年(1909)に野付牛で写真館を開いたことと時系列に整合しています。
◇登世氏が、網走の写真館「春陽館」を引継ぐ。
 「網走の兄登一は妻を早く亡くし、弟の登世に店を譲って、函館に帰郷しました。それで野付牛の写真館は閉じたのです。
地図 祖父(登世)が75歳の時(昭和32年頃?-引用者)、戦中、戦後の混乱期に不明になっていた兄の墓を探しに行きましたが、分からなかったそうです。」
 子どものいなかった吉田登一氏が函館に転出して、同氏の写真館「春陽館」を登世氏が引継いだとなれば、これで今まで筆者が消息不明としていた点が解明されたことになります。
 ただし、引継いだ時期はご遺族も不明だそうで、筆者は各種情報を総合して、大正末年か昭和初年頃と推測しています。
 『全北見写真師会創立20周年記念誌』によれば、登一氏が創業した写真館「春陽館」は「明治43年南6条西2丁目」に開館したとありましたので、昭和3年(1928)発行の『網走市街明細図』(復刻版)で確認して見ましたら、「南5条西2丁目」の地点の同館を見つけました。これで昭和3年時点には、確かに登世氏が引継いだ「春陽館」が網走に存在していたことを確認できました。左は、その地図にある該当部分の拡大コピーです。「春陽館」の文字が中央右に見えます。
 次号で書きますが、戦時中に登世氏ご一家は中国大陸に渡りました。それで函館に転出後の登一氏とは連絡がとれなくなり、その消息は全く不明とのことです。
 「祖父は網走でも消防に力を入れ、札幌に網走初の新式消防車を買いにいき、無免許で運転して帰り、網走町へ寄附をした、と聞いています。」
 以前にも網走消防史で登世氏の足跡が確認できないかと網走市立図書館に問合せしましたが、「該当する記述はありません。」との回答でしたから、優理さんのこの証言は貴重です。(続く)
《分庁舎だより》☆8月1日、第1分庁舎での執務を開始しました。市史編纂を始めた平成13年度当初は簿冊3冊しか無かったのに、この十年余、市民のご協力で運搬業者が溜息でるほど大量の資料類が集まったことを今回の引越しで再確認しました。皆様に心より感謝いたします。

 

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