ヌプンケシ222号

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市史編さんニュースN0.222

 

タイトル ヌプンケシ

 

平成23年9月1日発行

 

 


 

◎野付牛写真業の草分け、吉田登世氏の消息(2)
◇登世氏三男、登喜夫(ときお)氏のこと

 「祖父登世は妻のサワとの間に五男二女をもうけました。私の父、登喜夫は三男で、大正5年(1916)6月1日、戸籍によれば網走町南三条西二丁目十七番地で生れました。
 盛岡にあった陸軍士官学校を卒業、その後、中国大陸に出征、一年は戦地、次の年には天津で軍隊教育の教官をして、終戦時は天津で大尉となり、連隊長を務めました。
 母トシとは昭和16年(1941)11月に結婚、同19年(1944)8月に姉の昭子が天津で生れました。」
 当方で調べたところ、登喜夫氏は昭和9年(1934)3月に網走中学校を卒業していました。
 昭和11年(1936)には、登喜夫氏は徴兵検査の対象年齢20歳になっています。
 インターネット情報によれば、盛岡にあった士官学校は、陸軍予備士官学校で昭和14年(1939)8月に設置され、同16年8月には前橋に移転しました。
 その間に登喜夫氏は同校に入校、卒業したことになりますから、その時系列的な差を考えると、登喜夫氏は大学か専門学校を卒業後に兵隊に取られた、と筆者は推測しています。
 予備士官学校は、下級将校の不足を補う為に昭和14年(1939)以降に設置された、中等学校以上で軍事教練を受け将校適任とみなされた甲種幹部候補生を、予備役将校に任用する為の教育機関でした。登喜夫氏は、現役二等兵で入隊後に幹部試験を受け、成績優秀で甲種幹部候補生となり、予備士官学校に入ったのでしょう。将校になるといっても、身分的には予備役将校でしたから、戦争が終われば元の職業に戻るアマチュア将校だったそうです。
 昭和16年12月に太平洋戦争が始まる前は、昭和12年(1937)7月におきた日中戦争のために中国大陸が主戦場でしたから、登喜夫氏はそちらの部隊に配属されたのでしょう。
 「祖父は国の奨励により、家族全員を連れて、中国大陸に渡り、天津租界で暮らしました。昭和19年に祖母サワが亡くなりました。」
 登喜夫氏の中国出征に前後して一家は中国大陸に渡り、網走の写真館は閉じられたようです。

◇戦後、網走に引揚げ

 「敗戦後、私たち一家は網走に引き揚げ、祖父が網走町に貢献していたということで、町所有の部屋を貸してもらいました。父は親戚の水産会社で支配人になりました。
 私(優理さん-引用者)は、網走で昭和24年(1949)7月に生れましたが、昭和26年(1951)7月には母トシが亡くなりました。」
 敗戦後の満州から日本への引揚げは苦難の連続でしたが、中国大陸での米軍占領地域からの引揚げは輸送船の手配がつきしだい順調に実施されました。もし、満州であれば連隊長であった登喜夫氏は確実にシベリア送りになったことでしょう。その点では、ご一家は幸運でした。
◇登世氏の長男、一男氏が写真製版業を創業
 「登世の長男、一男は父の影響で、東京の小西写真学校(小西は現在のコニカミノルタの前身)を卒業しています。天津ではホテル業をしていました。
  札幌に引揚げ後は、勉強していた写真の経験を活かすべく、印刷用の原版を作る写真製版業を札幌市南1条で昭和25年(1950)4月創業、この業界では北海道の草分けでしたが、半年で結核に倒れました。兄が倒れたので、父は私達(昭子・優理)を登世に預けて、単身で札幌に出て、借金だらけの会社と、兄嫁、小さい甥の面倒をみました。私達が父のもとに来たのは、昭和27年(1952)9月頃でした。同年12月13日、伯父は事業を父に託して亡くなりました。
 昭和28年には札幌桑園へ本社を移転、以来(株)サン写真製版として業界を牽引しました。同年9月、父は高橋榮子さんと再婚しました。
 昭和29年には祖父と再婚したイヨさんも亡くなり、祖父が網走で一人暮らしになりましたので、三男の父が札幌に引き取りました。こうして、札幌での新しい家族の生活が始まりました。」
◇浄土宗から、キリスト教の聖公会に一家で改宗
 「『ヌプンケシ』192号で吉田登一がハリストス正教会に入信した記事がありましたが、我が家でも昭和35年(1960)、網走の幼稚園から父と幼馴染であった林牧師が北海道大学南門の教会に転勤してきた縁で、父が浄土宗から聖公会への改宗を決め、一家5人、洗礼をうけました。」
 インターネット情報によれば、「聖公会」はイングランド教会を母体に、世界160カ国に広がる信徒6500万人の教会で、ローマ・カトリックとプロテスタントに大別される西方キリスト教会の中で、同会は両者の要素を兼ね備え、その中間に位置していると言われているそうです。
ご一家の写真◇晩年の登世氏
 「晩年の祖父は会社に一室を与えられ会社の若い人に旧式カメラの写し方を教えたり、悠々自適の人生を送りました。当時は珍しいカラーワイシャツを着るなど、お洒落な人でした。
 昭和39年(1964)12月12日、脳溢血で天に召され、82歳の大往生でした。墓誌名は パウロ 吉田登世です。」
 左の写真は、昭和37年頃に撮られたご一家の写真です。左端が登世氏、右端が登喜夫氏です。愛する家族に囲まれて、登世氏も幸福だったことでしょう。
◇登喜夫氏の死後も会社を守って
 「ゆっくり昔の話も聞くことができなかったほど多忙であった父が、昭和41年(1966)6月1日、胃がんのため50歳の若さで亡くなりました。その後は、残された家族で会社を守り、業界環境の変化で平成17年(2005)廃業するまでの52年間、同地で営業してまいりました。」
 大変なご苦労があったようですが、紙面の都合で平成8年(1996)2月、北海道写真製版工業組合発行『北の写真製版史』に掲載の、株式会社サン写真製版の沿革だけ紹介しておきます。
 「昭和25年4月 創業/同28年 現在地(札幌市中央区北7条西11丁目-引用者)へ移転/同34年1月 法人組織となる/同35年 道内業界初腐食機導入、製版にフィルム式とり入れる/同37年 グラビア製版で業務拡張/同41年 社長登喜夫逝去、吉田榮子社長就任/同46年 グラビア部門を独立、複製部門設置/同59年2月 吉田昭子社長就任/同62年6月 新社屋建設平成2年 創業40周年を記念して社是・経営理念を発表/デジタル化計画推進」
 こうして吉田登喜夫氏ご遺族のご協力で、不明だった野付牛写真業の草分け=吉田登世氏の消息と、戦後ご子孫達が道内の写真製版業界で活躍した事実を知ることができました。(完)

《分庁舎だより》☆今回もインターネットで当ニュースを見られたご遺族のご連絡で、今まで不明だったことが明らかになり、担当者として大変喜んでおります。市史編さんの仕事は次々と失われる時間との戦いでもありますから、ご遺族のご協力には心より感謝いたしております。

 

 

 

 

 

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