ヌプンケシ223号

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市史編さんニュース NO.223

タイトル ヌプンケシ

平成23年9月15日発行

 


 

 

デンシンバシラの写真◎電信柱のこと
 右は、昭和54年(1979)10月発行の『写真集  明治/大正/昭和 北見』に所載の「46 大通り東四、五丁目」と見出しのある大正3年の写真ですが、道路の左側に並んだ柱を皆さんは、何だと思いますか。電柱ではありません、電信柱です。
 同写真の説明には、次のように書かれています。「道路の左に並ぶ柱は旭川から網走まで中央道路に沿って明治二九年(1896年-引用者)に建てられた電信線用のもの。」
 電信柱は電信電報の設備で、電柱は各事業所・各家庭に電気を送電する設備です。現在、街中にあるのは電柱ですが、野付牛の明治~大正初期の街頭写真に写っている柱は電信柱なのです。野付牛に電灯がついたのは、『北見市史』年表編では大正4年(1915)9月頃としています。
◇実用的な電信機の発明
 実用的な電信機はアメリカのモールスが1837年に発明し、モールス信号も考案して、1840年に特許を得ました。1844年には世界初の遠距離電信がワシントン~ボルチモア間で成功し、広大なアメリカでは迅速な通信の開発は政治経済の重要な課題でしたから、西部開拓と共に電信機は瞬く間に普及しました。ヨーロッパでも、電信機は戦争の勝敗の鍵を握る情報伝達の機器として受け入れられました。世界各国は次々に電信網で結ばれ、各国の出来事がニュースとして即時に世界に配信される時代になりました。
 日本に電信装置を最初にもたらしたのは、アメリカのペリー提督でした。嘉永7年(1854年)、彼は2回目の来日に際して将軍家に2台の電信機を電池と共に献上し、電信機の作動を一般公開しました。この実演に日本人たちが多大の興味を示したことは、ペリーの遠征記(『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫)に書かれていますから、興味のある方は読んでみてください。
◇日本での電信事業ことはじめ
 日本での電信事業の実用化は早く、明治2年(1869)10月23日(旧暦・9月19日)横浜の裁判所内に電信機役所が置かれ、そこから東京の築地運上所(税関)までの約32kmに電信柱593本を立てる工事が着手されました。この日を日本の電信事業の出発点として、昭和25年(1950)『電信電話記念日』が制定されました。
 この東京~横浜間の電信線の開通をみて、明治3年(1870)1月26日(旧暦・明治2年12月25日)、伝信局を置き、通信規則・料金を定め、一般電報の取扱を開始しました。
 こうして「電信柱」(でんしんばしら)は、文明開化のシンボルとして庶民の前に登場しました。しかし、当時の庶民には電信の原理は理解できず、どうやって細い針金の電信線を介して電報が通るのかと一日中観察する者がいたり、電報が届くならと手紙を括りつける者もおりました。また電信線には処女の生き血が塗られている等の迷信で、打ち壊しもあったそうです。
◇反政府騒乱・自由民権運動と電信柱
 作家・井出孫六氏は、その著作『秩父困民党』で電信柱について次のように述べています。
 「横浜―東京間に初の電報業務が開けて以後、明治四年から六年にかけて東京―長崎間、明治八年には東京―青森、さらには北海道にまで電報の網は広がり、ここにわずか維新八年にして電報は日本全国を縦貫したのであった。」「公用電報が無料で、私用電報は高額の料金を要した」「全国縦貫電報網の突貫工事の真の目的が何であったか」。
 「明治六年に東京―長崎間に電信柱が並び終わった直後に、江藤新平の佐賀の乱が起こったではないか。もし、長崎まで電信柱が並び終わっていなかったら、佐賀の乱鎮圧はかく簡単にはいかなかったはずであり、相ついで起こった神風連の乱、秋月の乱、萩の乱共に同断であった。熊本に電信局が開局されたのは明治八年であり、それはあたかも、やがて起こるであろう西南の役を予想してのことだったのではないかと憶測さえされる。はたして、明治十年、鹿児島に挙兵した西郷が政府軍に屈せざるをえなかった一半の理由は、『電報』にあったとさえいえるほどに、電信柱の威力は西南戦役で発揮されたのであった。」
 「国益の大義と見せかけの民生向上という論理に支えられて、この文明開化のシンボルは、奇しくも明治初年から十年代の天皇行幸の足跡にあわせるようにして全国に広がっていく。軍事的視点が欠かせぬものであったことは、明治九年に軍港の町横須賀に、そして明治十三年には東京鎮台営所の存在する千葉県佐倉に、電信局が特設されていることなどに端的に語られているといえるだろう。明治初年に九州まで伸びた縦貫電信網が西国での一連の反政府騒乱に対処するものであるとすれば、明治十年代の地方都市を結ぶ横断電信網は明らかに十年代自由民権運動に対処するものだったといえるのではなかろうか。/こうして、電信柱はわずか十数年のあいだに全国くまなく立ち並び、『デンシンバシラ』という名詞は片田舎まで敷衍されたのであった。それから数十年をへて、日本の町や村に電灯線がおくればせながら入っていったとき、電灯線もまた『デンシンバシラ』の名称にくみ入れられたのだといって良いだろう。われわれが幼少の頃、電信柱と読んでいたものの多くは、じつは電灯線であったにちがいないのだが、すでに電信柱の名称は深く根をおろしてしまっていたのである。」
◇当地では、明治30年(1897)5月1日開局
 『オホーツク 北見電気通信部の電信電話』によれば、北海道では明治7年(1874)北海道電信線として、福山(現在の松前)~小樽間の架設が竣工し、明治8年3月20日から公衆電報の取扱いをはじめたそうです。北海道開拓と共に電信網は順次道央を中心に整備がなされ、その後日本海に沿って明治21年(1888)札幌―石狩間、22年石狩―増毛間、増毛―稚内間は23年に電信線が架設されて、24年に正式開通しました。オホーツク海側では、明治23年に釧路―網走間が完成、25年には紋別をへて稚内まで架設され、26年に正式開通して、釧路・標茶・網走・紋別・枝幸・稚内、6局接続の釧路―稚内線となり、電信線=電信柱は北海道を一周しました。
 当地域での電信線整備は明治29年(1896)5月旭川から網走への工事として中央道路に沿って始められ、明治30年2月21日札幌―旭川間の既設線と、新設の旭川―網走間の電信線を接続して、札幌―網走線として開通しました。前ページ写真の電信柱はその頃のものなのです。
 屯田兵配備に合わせて、明治30年5月1日「生顔常村字相ノ内」に電信局が開局しました。ただし、この「相ノ内」は現・相内と違う、「本町4丁目」緑園通り側のところでした。 (完)

 

《分室だより》☆毎回2ページの紙面にできるだけ正確な情報を詰め込もうと苦労しています。今回は当地に「何時、電信柱が来たか?」を書こうとしたのですが、最後が尻切れトンボになってしまいました。普通に街で目にする「電信柱」「電柱」にも、こうした歴史があるのです。

 

 

 

 

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