ヌプンケシ226号

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市史編さんニュース NO.226

タイトル ヌプンケシ

平成23年11月1日発行


◎『屯田兵および家族教令』と『兵員及家族教令』(3)

◇『湧別兵村誌』、『野付牛町誌』の説明文から

 『湧別兵村誌』と『野付牛町誌』を対照して『兵員及家族教令』の説明文がほぼ同じなことに気づきました。『野付牛町誌』は大正15(1926)の刊行時に、大正10(1921)発行の『湧別兵村誌』から『教令』を全文転載したのかもしれません。その説明文は以下のとおりです。

 「兵員及家族教令/本教令ハ前ニ屯田兵村心得書トシテ一般ニ配布シ其風紀規律ヲ正シ以テ兵村タル特色ヲ発揮セシメ施()テ愛国尽忠ノ精神ヲ涵養セント欲シテ頒布セラレタルモノナリ。後之ヲ兵員及家族教令ト改メラル。今其全文ヲ左ニ掲グ。」〈(延)は『野付牛町誌』の表記〉

 この説明によれば、『教令』は最初『屯田兵村心得書』として配布され、後に『兵員及家族教令』となったということです。つまり、『教令』の本文が作成されたのは、北見屯田が配置された明治30(1897)や明治31年よりも以前ということになります。

 手がかりを探すのに、いつも頼りにしている昭和55(1980)11月発行の『新北海道史』第九巻/史料三の年表を検索したところ、「1890(明治23)」の「政治」欄に「10.― 屯田兵及家族教令を定める。」が見られ、その出典は『永山町史』とありました。

◇『永山町史』では…

 当室の蔵書にはないため、北見市立中央図書館から借りた昭和37(1962)4月発行の『永山町史』の目次には「第十四節 兵員及家族教令」があり、次の文章が載っていました。

 「遠く祖先墳墓の地を離れて足跡未到の僻地に入り、北門警備の重任を果たしながら熊狐跳梁の未開地に開拓の鍬をふるう。そのよく成果を収めて不朽の功を遺したのには、不屈不撓、尽忠報国の指導精神、いわゆる屯田魂の培養によるべく、その関係するところは最初より厳として存したであろうが、これを成文化したものに、明治二十三年十月、本部より出された『兵員及家族教令』がある。もと『屯田兵心得書』として一般に配布し、後に今の名に改められたものであるが、昭和十三年、時局が次第に緊張を加えて来たころ、時の道庁長官石黒英彦、北見の端野でこれを発見して感激し、この精神こそひとり屯田兵一類の宝典たるばかりでなく、屯田魂はすなわち北海道魂である。この精神こそ北海道青少年指導精神でなくてはならぬと、早速印刷して各学校や教化団体に配ったものである。(後略)」

 ご覧のとおり、『永山町史』では明治2310月に『屯田兵村心得書』ではなくて『屯田兵心得書』が出されたことになっていますが、その根拠・出典の記載はありません。

◇『北海道屯田兵制度』では

 次に大正3年(1914)5月発行の研究書、上原轍三郎著『北海道屯田兵制度』の年表を参照することにしました。その結果、「明治二十三年」の項に該当する事項が2件で出てきました。

 「十月」の一項目に「○兵村公有財産取扱規程新兵受渡手続兵器弾薬受授手続各隊官舎管理規則及被服管理法ヲ定メテ其取扱方ヲ明ニシ又屯田兵及屯田兵家族心得書ヲ定メ兵村ノ風紀ヲ律ス」(下線は引用者)とあり、「十一月」の一項目には「○屯田兵及家族心得書ヲ定メ兵員及家族居村日常ノ心得ヲ示達セリ」とありました。

 これに関係して、扇谷チヱ子さんから昭和54(1979)9月発行の伊藤廣著『屯田兵村の百年』下巻の「附録4 屯田兵制度に関する諸規則」に『屯田兵員及家族教令』があることを教えて頂きました。当市の『兵員及家族教令』と比較すると、大隊名はなく、年月は「明治二十三年十月」とあり、文言には読みやすくするために句読点が付けられており、誤字・脱字・異字もありましたが、基本的な内容は同じでした。しかし、残念なことに、この『教令』の出典がどのような行政文書・図書類かは記述がなく、具体的には何も分かりません。

 この『屯田兵村の百年』下巻の『教令』の年月が正しいものと仮定して、『北海道屯田兵制度』の『屯田兵及屯田兵家族心得書』と『屯田兵及家族心得書』が同一のものであれば、『心得書』は明治2310月に制定され、11月に示達(文書で通達)されたと、年表の該当事項を理解するのが順当なところのようです。

 『心得書』が『教令』の基になったのは事実のようですが、見たとおり『屯田兵及屯田兵家族心得書』『屯田兵及家族心得書』『屯田兵村心得書』『屯田兵心得書』、4種のタイトルがあります。これらについて北海道立文書館にも問合せましたが「該当する文書はない。」とのご回答で、どれが正式名称かは新たな情報が出てこない限り、現有の資料だけでは判断できません

◇『教令』を成文化したのは小泉正保

 『北見市史』上巻で鈴木三郎先生は、出典・情報源は明らかではありませんが、『教令』が作られた経過を次のように説明されています。

 「小泉正保が中央から屯田兵本部付として赴任した直後、屯田兵の精神的支柱となる要項の発案の命令を受けた。永山本部長は欧米・露の視察に出向して得た屯田兵制度に対しての諸改革中に、どうしても精神面の指導を強化することが必要だと痛感するに至った。一つには彼が育った熊本藩での儒教的教育が、その底流となっていたこともあろう。将来を考慮した結果、一刻も早く精神面の指導要項を発布して、屯田兵とその家族に新開地開拓の困苦に耐える強靭な精神を確立させなければならないと考え、その立案を腹心の荒城少佐に下命した。荒城はこれを受け、新任の小泉参謀大尉に成文化を命じた。小泉は永山本部長の意を体して、熟慮を重ねて成文化したのが『屯田兵および家族教令』であった。永山がこれをそのまま採用したことは、小泉の構想と彼の意図が一致したからである。従って、永山は発案者であり、小泉は完成者であると云える。」「教令は大隊毎に印刷して各戸に一枚配布し、所定の箇所に掲げておくことになった。北見屯田の場合は、六畳の座敷の壁に掲示するように命ぜられていた。」

 総合すると明治23(1890)10月に『教令』の本文が制定されて、平民屯田として順次道内各地に配置された屯田兵村各戸にその印刷物が配布されたということですから、当市や湧別町の「屯田歩兵第四大隊」にだけ特別に配布されたものではなかったのです。

◇明治35(1902)5月付『教令』の不可思議

 他に『教令』類がないか、インターネットで検索して見ると「明治三十五年五月 第七師団長男爵  永山武四郎」名による『屯田兵員及家族教令』が出てきました。

 資料では昭和55(1980)9月に発行された旭川叢書第13巻、玉井健吉著『史料・旭川屯田』に、同じ内容の『屯田兵および家族教令』が掲載されています。

 しかし、ここで疑問なのは普通の『教令』が大隊名で配布されていた筈なのに、この2点の『教令』では「第七師団長男爵 永山武四郎」になっていることです。しかも、明治35(1902)時点では屯田兵の募集は停止されて兵村の設置はないのに、どうしてこの時点で『教令』が出たことになったのか、これも謎の一つです。そこで現物の所在を旭川市の市史編集担当者の方に照会したのですが、不明とのことでした。筆者にはとても不可思議な『教令』です。(続く)


《分庁舎だより》☆1014日開店のコーチャンフォー北見店は大盛況でした。本好きの筆者はたまらず、当日仕事帰りに立寄って2時間も本棚の間をウロチョロしてきました。出札しなくても、流行本はここで直に入手できそうです。これで筆者の散歩コースがまた一つ増えました。 

 

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