ヌプンケシ227号

 

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市史編さんニュース NO.227

タイトル ヌプンケシ

平成23年11月15日発行


 ◎『屯田兵および家族教令』と『兵員及家族教令』()

 ◇『北海道の女たち』から

『北海道の女たち』表紙 早い時期にアイヌ女性や屯田兵の妻など、北海道開拓に関わった女性たちの歴史を取上げた本に、高橋三枝子さんが昭和51(1976)10月に発刊した『北海道の女たち』があります。

 高橋三枝子さんは北海道の女性史研究のパイオニアで、この他、戦前の小作争議を取上げた『蜂須賀の女たち』などの諸著作もあり、長らく旭川で北海道女性史研究会を主宰され、昭和47(1972)7月創刊で平成16(2004)6月発行の39号で終刊になった機関誌『北海道女性史研究』を発行されてきました。その『北海道の女たち』を見てみることにしましょう。

◇屯田兵の家族と『教令』

 高橋三枝子さんの『北海道の女たち』には、明治28(1895)に空知の秩父別(現・秩父別町)に入植した屯田兵一家、畑家に奉公し、日露戦争後、次男に嫁いだ富山県出身の「畑めつえ」さんの証言が記録されていて、「家族教令」という一節があります。

 「水くみも、姑に怒られることも確かにつらかったが、泣く子もだまるといわれて兵士やその家族から恐れられたのは連隊長の庭検査だった。/一週間に必ず監視兵と称する兵隊が見廻りに来る。いつくるか分らないので気が気でなかった。/運悪く農道具の整頓が出来ていないところに見廻って来られたりすると、戸主が連隊本部に訓練に行った時呼び出されて叱責された。昼間の仕事よりも道具の始末に気を遣った。いつか小姑が縁側に足を投げ出して昼寝をしている時この庭検査が来た。驚いて飛び起きた拍子に庭に転ろがり落ちて怪我をしてしまった。/庭検査の間中、家中の者が身体中の血が凍るようなおもいをした。/屯田兵村の家族は兵舎の中で、生活しているのと全く同じだった。」

 「『戸主はおるつていう名前だけで、あらかた訓練と部落のことに引きだされておるますたから、屯田兵制度のあるうつは、男衆の働きはあてにならなんだがです。屯田兵のうつは皆女衆が男衆の仕事あらかたすたがです。』(富山弁です。誤記ではありません。-引用者)/これは、世に比類なき保護の代償として義務付けされたもので、さてこの厚き保護とは一体何を指したのだろう。/めつえさんは、菊の紋章の入った鉄びん等朝晩これを使うときは、必ず両手を合わせて拝んだ。天皇陛下から下賜になった品物だから、おろそかに使ってはならないと姑にきつく戒められていた。」

 「中隊からの命令もあって、お産は一週間休めた。その代り八日目からは皆起きて働いた。少し位の病気なら起きて働けといって見廻りに来た中隊長から怒られた。/そのために、身体の弱い人や病気の人は皆内地に還された。半ばこれは軍の命令だった。皆若死にしていった。特に開拓地の女たちは若くして死んだ。/医師は大隊本部に軍医が一人いて、婦人科も小児科もこの一人の医者が診ていた。/病気になると、本人の不注意でなったとひどく叱責されるので、皆この軍医に診て貰わずに、郷里から持って来た薬りをのんで癒した。」(原文のまま)

 前記のとおり、当時辺境だった当地域に比べて交通の便が良かった空知の兵村では、病弱者は郷里に送還されたようです。病気になると「不忠」を責められるので、軍医の治療を遠慮したというのも酷い話です。

◇「北見屯田」=屯田歩兵第四大隊では 

 それでは当地域に入地した「北見屯田」=屯田歩兵第四大隊ではどうだったのでしょうか。扇谷チヱ子さんが著した『萩の根は深く』で、その様子を見ることにしましょう。

 「屯田兵の義務は、明治三十年十月の改正で、三十年兵は現役六年、後備十四年、三十一年兵は現役五年、後備十五年通算二十年だったが、三年間にとくに厳しく兵士としての基礎を叩き込まれた。その内でも移住後の数カ月とくに生兵と呼ばれ厳しい訓練をうけた。/組によって若干違いはあるが、風呂組は六こ組十八戸、各班には合図用の『板木』が吊してあって、用事がある時これを叩いた。板木が鳴ると屯田兵は何をおいても急ぎ班長宅へ集合した。軍隊的な訓練によって会合の集合時間など、時間は実に厳格に守られていた。広い範囲の集合とか、緊急要件になると、中隊本部から騎馬の伝令が飛び回って指令を伝えた。『遅れるな早く来るな』これが原則で、遠い者でも十分前に到着していれば良いと士官に言われていた。早田ミシヨさんは次のように話している。/『板木が鳴ると何をおいても戸主さんは集まらなきゃならん。戸主さんは仕事になりませんです。着いた当時は制服も何もないのです。伊勢でソーメン屋をしていたと言う人は長着のまま出ていた。この人はよくパチン、パチンと殴られていましたね。九州の人は着物を短く着るのでまだよかったです。訓練があり帰ってくれば配給など取りに行ったりして、戸主さんがいればこそ扶助料が貰えて家族の者が食べられたのです。戸主さんの権利は大したものでしたよ』」

 この引用部分で筆者が思うに、本州から当地に入地した当初は屯田戸主も着物姿で、生兵(せいへい)として、それまで手にしたこともない銃を担いでの軍隊行進等の訓練をさせられ、非常召集で集合するにしても着物では急いでも限度があったのでしょう。しかも各地から来た平民屯田兵たちが話す言葉も様々な方言でしたから、上官の命令を理解するだけでなく、兵同士の意思疎通をはかるだけでも大変なことでした。要領の悪い人は訓練で失敗するたびに、上官に殴られたのですから、屯田戸主も大変だったのです。

 「(前略)開墾に従事する家族もまた中隊本部の指導命令は絶対で、一糸乱れぬ歩調を要求され、しかも競って開墾地を増やすよう叱咤激励された。労働は官給品の給与、塩菜料の給与の代わりに、三年間に家屋所在地五千坪の開墾の義務を負うという一種の強制労働であって、起床、食事、作業出勤、作業終了、消燈等一日の生活はラッパの合図で行われた。合図がなければ雨が降っても風が吹いても家に入れず、寒冷期には体を暖めるため自由に家に入ることもできず、凍傷にかかる者も出た。病気になっても軍医の診断で許可がなければ休むこともできず、私用で兵村外に出る場合は中隊本部の許可が必要で、外部の行商人も許可証がなければ商売ができないというまことに厳しいものであった。/『相内村誌』は、屯田兵は一般開拓者と比べれば『甚ダ幸福ナリシガ如キモ一面厳粛ナル軍紀ニ束縛サレ一挙一動其命ニ従ヒ絶対ニ其自由意志ヲ認メラレズ而シテ一家ノ支柱タル兵員ハ二十年間ノ血税ヲ負担シタレバ其規律ニ馴ルル迄ノ間精神上ノ苦痛ハ到底一般移民ノ比ニアラザリシナリ』といかに軍律が厳しかったかを記している。」

 「食事においても馬鈴薯を必ず混食することになっていて、時々米櫃の検査まであった。」

 こうした屯田兵とその家族の日常生活の行動規範とされたのが、屯田兵屋の六畳の座敷の壁に掲示して朝夕朗読するように命じられていた『屯田兵および家族教令』だったのです。(続く)            

 《分庁舎だより》☆い良いよ冬の気配が身近に感じられる季節になってまいりました。現在工事中の旧庁舎の脇を通ると、取り壊しが本格化していて、筆者が昔勤務していた日赤側の2階建て庁舎部分はすっかり取払われていました。街角でしばし往時を偲び、感傷に浸りました。

 

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