ヌプンケシ228号

 

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市史編さんニュース NO.228

タイトル ヌプンケシ

平成23年12月1日発行


◎『屯田兵および家族教令』と『兵員及家族教令』(5)

◇『教令』と屯田兵の定着率

 前号でもみたとおり、『教令』は兵村での生活をがんじがらめに縛りつけていましたから、屯田戸主はもちろん、妻、子どもなど家族達には非常に窮屈で不合理なものと受けとられていたようです。それですから、屯田兵が現役解除された時は、将来の生活に不安があったものの、屯田戸主だけでなく、家族も解放感を感じたに違いありません。

 このことに関して、北海道史研究の先達の一人、榎本守恵(19251993)氏は昭和51(1976)11月発行の『北海道開拓精神の形成』の中で、次のように書いています。

 「戦前すでに北海道屯田兵全体で約二割と推定される定着率は、兵村を墳墓の地と心得よ、という『教令』とはあまりにもかけ離れた現実を示している。」「東旭川の古老が『屯田兵の規則が其自由を許さないので泣き泣き年明きを待ったのであった。彼等は時来るや夫れ夫れ得意の方向へ転換したのである』と認めるように、自由発展の契機を持たなかった屯田兵強制自体の欠陥が、いわば『教令』の逆説的な帰結として必然的に生み出した離村率であったのである。」

 筆者は、屯田兵現役解除の時点で各家庭に掲示されていた『教令』の多くが廃棄されたのではないかと推測しています。

野付牛屯田の定着率表◇野付牛屯田の定着率は?

 野付牛屯田での定着率はどうだったのでしょうか。

 昭和56(1981)発行の『北見市史』上巻には、昭和11(1936)111日調べの『屯田兵村現況調』を基に「屯田兵第四大隊第二中隊/野付牛屯田兵村」の定着率について、左の表を提示して次のように書かれています。

 明治36(1903)の「現役解除後給与地が屯田兵戸主の所有地に許可され、農業専従の制約も解除された結果、他に転住する者又他の職業に転ずる者が次々と出てきた。転住者は給与地以外の町内に転ずる者、転職者も町内の他の職に就く者もあったが、転住と転職者の大部分は他の地に移動したので、兵村に定着する者は次第に減じていった。 (中略)町内在住を含めた定着率は六二・六三%になっていて、約入地時の半ば前後が定着していることになる。」

 つまり『北見市史』上巻では入地戸数198戸に対して、兵村在住53戸+町内在住71戸=124戸で62.63%としていますが、兵村在住戸数53戸だけで定着率を出すと26.77%になります。どちらが妥当な定着率か判断できませんが、当地でも現役解除後は農業ではなく、別の職業についた屯田兵がたくさんいたことがこれらの数字からも明らかです。

◇国民精神総動員運動と『屯田兵員及家族教令』

 この『教令』が再び注目されるようになったのは、前に引用した『永山町史』にあったとおり昭和12(1937)7月に日中戦争が起きて、国民を精神的にも戦争に動員するために、国民精神総動員運動が推進されるようになった時でした。

 昭和17(1942)9月28日に、空知管内滝川町(現・滝川市)で空知支庁・大政翼賛会空知支庁支部の共催で屯田兵開拓懇談会が開催されました。その記録は昭和1810月『屯田兵開拓敢闘録』として発刊され、その紙面で空知支庁総務課長岸田利雄から『教令』が国民精神総動員運動の指導精神として再評価され、教材化されていった経過が次のように説明されています。

 「実は私が嘗て網走支庁に居りました時に現在の高尾支部長が網走支庁長でございました。その時に高尾支庁長は屯田兵員及家族教令を見まして、之が本道開拓と文化確立の精神であり同時に今日私共の受け継ぐべき指導精神であると信ぜられて種々の方途を講ぜられて其の昂揚を図つて参りました。又時の長官石黒英彦閣下が網走管内視察中に之を観られまして『北海道にはこんな活きた立派なものがある。この父祖の尊い精神を忘れて居るやうではいけない』と云はれまして又其の昂揚に非常に力を入れられたことは皆様御承知の通りであります。高尾支庁長は昭和十四年にこちらに参られてからも青少年教育の基本材料として此の教令を用ひられて居るのであります。」

 以上を整理すると、昭和12年8月に網走支庁長になった高尾善次が最初に『教令』を見つけ出したところに、北海道長官石黒英彦が網走管内の視察に来て『教令』を評価し、道庁として『教令』を全道に広める運動をしたということです。その実績が認められたのか、後に石黒は昭和17年6月から昭和1810月まで大政翼賛会錬成局長の地位にありました。

◇石黒長官、昭和12年9月17日端野訪問

 その石黒長官が端野に来た事実があるか、端野図書館に照会しましたが、不明という回答でしたので、次に当市の中央図書館にある戦前の『北見毎日新聞』を調べてみました。

 その結果、昭和12年9月18日付の同紙に、石黒長官が視察で9月16日出征軍人の遺族を慰問しながら、留辺蘂から置戸・訓子府をまわって野付牛に入り、翌日17日に予定を変更して端野会館に立寄って、出迎えた村民に挨拶したことが書いてあるのを見つけました。

 『北見毎日新聞』で見る限りでは、同長官がその在任期間(昭和12年6月5日~131223)中、端野を訪問したのは、この一度だけでした。ですから、『永山町史』にある「昭和十三年、時局が次第に緊張を加えて来たころ、時の道庁長官石黒英彦、北見の端野でこれを発見して」云々という時期は、正しくは昭和12年のことだったのです。

『屯田兵員及家族教令』表紙◇「北海道廰」名の『屯田兵員及家族教令』

 右に提示した、現在でも古本屋などで流通している冊子型の『屯田兵員及家族教令』は以上の経緯から石黒長官が視察後に国民精神総動員運動の教材として作成されたものと筆者は考えましたが、同冊子には奥付がなく、発行者・発行年月日が明らかでありません。

 同冊子について北海道立文書館に照会したのですが、「道庁が配布したものかどうか確定はいたしかねます。」とのお答でした。

 しかし、今回この連載に際して、道内各地の平民屯田が入地した各市町機関に照会したところ、秩父別町教育委員会教育課長さんのご協力で、同町が保存する冊子型の『屯田兵員及家族教令』の表紙に「昭和121129日」の受付印があることが確認できました。

 また、美唄市教育委員会生涯学習課長さんからも同冊子の表紙に「昭和13年7月8日、北海道庁より送付」と添書きがあるとの回答を頂きました。これでこの冊子が道庁で作成され、昭和1211月から13年にかけて全道に配布されていたことが確実になりました。(続く)

《分庁舎だより》☆北海道新聞の1113日付『卓上四季』で歴史学者田中彰先生(83)の訃報を知りました。学生時代に『未完の明治維新』(1968年発行)を読んで深く感銘を受け、北見市民大学で親しくお話をお聞きした者として大変残念です。ご冥福を心よりお祈りいたします。

 

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