ヌプンケシ231号

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市史編さんニュース NO.231

タイトル ヌプンケシ

平成24年1月15日発行


◎焼き肉の街=北見のこと(2)

◇ホルモン焼きの「ホルモン」とは?

 前号掲載写真の大昌園の看板に「ジンギスカン鍋」とありましたが、大昌園が創業した昭和31(1956)頃といえば、筆者が小学校1、2年生で肉が貴重な時代でしたから、ジンギスカンも大変なごちそうでした。綿羊を食用に転用したためか、独特のにおいを消すためにジンギスカンの肉はすごく香辛料のきいたタレに漬け込んでありましたが、とてもおいしかったのでしょう、町内会の行事でもあったのか、中ノ島公園で大人たちに混じって七輪を囲んで食べたことを今も思いだします。筆者が幼少のみぎりはホルモンよりジンギスカンが好きでした。

 さて、ホルモン焼き屋には親に連れられて行ったのだと思いますが、筆者が最初に食べたのは串焼きでした。その頃の記憶では、ホルモン焼きの「ホルモン」は当時流行していた「ホルモン剤」と同じで、精力がつき「若返り」の作用がある成分=「ホルモン」が肉に含まれているのだと親から聞かされました。小さかった筆者は「大人は変な名前の、変なものを食うのだなぁ。」と思ったものでした。ですから、ずっと「ホルモン」の語源はそれだと思ってきました。

◇「ホルモン」は「ほうるもん」?

 ところが昭和45(1970)頃に筆者が読んだ本の中に、この「ホルモン」の語源について違う説が出てきました。それは関西弁の「ほうるもん」から来ているというのです。「放るもの」つまり「投げ捨てられるもの」が、いつか「ホルモン」になったというのです。精肉ではなく、貧しい人々が食べた、捨てられるような安価な部位の「ほうるもん」から「ホルモン」になったというこの説は、相当説得性がありました。

『焼肉の文化史』表紙◇ホルモンはやはり「ホルモン」

 しかし、最近になって医学用語の「ホルモン」説が正しいという本が出てきました。それが、平成16年(2004)7月発行、佐々木道雄著『焼肉の文化史』です。現在は絶版の同書巻末の著者紹介によれば、佐々木氏の本名は道淵信雄と言い、朝鮮半島を中心とする東アジアの食文化史研究者だそうです。

 同氏が「ホルモンという料理用語の使用実態」を調査した結果、「最も古い文献は、昭和11(1936)5月に刊行された魚谷常吉の『長寿料理』(秋豊園出版部)という本である。この本はずばり、ホルモン料理を紹介することを目的に書かれたものであった。」そうです。

 「ホルモンの名はいつから使われたのだろう。多田鉄之助の『続たべもの日本史』(新人物往来社、1973年)を見てみよう。/『精力を増進するものをホルモン料理ということが、大正の中ごろから昭和の初めにかけて流行語となり、一般に用いられた。鶏の肝臓や砂キモ、睾丸などを生で食べさせて、これをホルサシといった。こうなると、字引にも出て来ない新語である。玉子、納豆、山のイモ、動物の内臓などを広くホルモン料理といった。ホルモン煮だの、ホルモン焼、ホルモンなべ、などという看板が一時たくさん出たことがあるが、著しくは盛んにならない前にすたってしまった。一時的のものといってよかろう。』/多田鉄之助が大学を卒業したのは1922年(大正11年)だが、この直後にホルモン料理が流行した。おそらく氏の多感な青春時代の経験に基づく記述であり信憑性は高いと思われる。また、先の『長寿料理』にも、1920年代末にホルモンを売り物にする料理店が続出したと書かれているので、ホルモンの名が料理名として使われるようになったのは、1920年代後半であったと推定できる。」

 「前述のように1920年代には、納豆やナガイモなどの植物性の食品から動物の内臓まで含めて、精力のつく料理をホルモン料理と称していた。/その後に魚谷常吉は『長寿料理』(1936年)で、ホルモン料理の科学性を主張し、ホルモン(内分泌物質)を含んだ素材(獣や魚の内臓)の料理だけをホルモン料理と呼ぶことを提唱した。わずかに遅れて、1930年代後半に大阪の洋食店『北極星』が、牛の内臓料理をホルモン料理と銘打って売り出して好評を博した。こうしてホルモンの名は、しだいに牛豚の内臓を意味する方向へと向かって行った。/戦後のホルモン料理ブームは、戦前のホルモン料理ブームが復活して大流行したものと思われる。」

 「戦後のホルモン料理ブームは、マムシやスッポンなどももてはやされたが、ホルモン焼きの流行以降にはしだいに牛豚の内臓料理がホルモン料理の主役になった。そして、“焼肉„を扱う韓国・朝鮮料理がホルモン料理の代表に駆け上がる。/ところが近年になると、ホルモン料理という言葉はほとんど聞かれなくなった。そしてホルモンは、専ら牛豚の内臓の意味に、さらに内臓の中の大腸や小腸を表す言葉に変化して使われている。」

 こうしてみると「ホルモン焼き」の語源にもなかなか奥深いものがありますね。佐々木氏にはこの他に『焼肉の誕生』という著作もありますので、興味ある方は読んでみてください。

◇ホルモンと家畜処理場(屠場)の歴史

 『三つ星人生ホルモン』(双葉社)、『悶々ホルモン』(新潮文庫)など最近のホルモン焼き食べ歩きルポを読むと、新鮮でうまいホルモン焼きを提供する名店は決まって家畜処理場(屠場)の近くにあることがわかります。当市が焼き肉の街と言われるのも、当市に家畜処理場があったからだとも言えます。そこで、簡単に?近代の家畜処理について見ていくこととしましょう。

 昭和51(1976)4月と発行年が一寸古い本ですが、加茂儀一著『日本畜産史』食肉・乳酪編で家畜処理の歴史を見ると、江戸時代、日本でも猪や鹿などの野獣を解体処理して、猪は「山くじら」と見立てて肉は「ぼたん」、鹿肉は「もみじ」などと称して、食用に提供することがありましたが、一般には忌みきらわれていたようです。

 幕末になって、外国人が来日、日本人が屠牛を嫌がるので、牛を船内で飼育・屠殺・解体して食肉にしたそうです。しかし、外国人の渡来が多くなるに連れて、船に積んできた牛だけでは間に合わなくなり「慶応初年に外人は外国商船で神戸へ行って関西各地の牛を取引している問屋から牛を買い、横浜に送ってその肉を試食した。ところが、その味は従来の移入牛よりまさっていたので、外人間で好評を博し、以来移入牛を食う者がなくなり、神戸牛の名声が高まるにいたった。」そうです。

 「元来屠牛所については、元治元(一八六四)年幕府が居留地設定に関する外国との誓約にもとづき、居留地には競馬場以外に屠牛所を造営することになっていたので、慶応元年(1865年-引用者)に横浜の居留地に、ついで同三年に築地の居留地に、それぞれ小規模な屠牛場をつくり、築地では日平均やっと一、二頭の牛を屠殺していた。」

 詳しくは前掲の『日本畜産史』を図書館で読んでもらうこととして、この牛肉の需要に目を付けた日本人業者が江戸郊外に屠牛所を設け、牛肉を公使館などに納めて、残りを庶民に市販したので、下層民の食べ物として牛鍋が普及したそうです。(続く)

 

《分室だより》☆新年3日から北海道新聞管内版に「焼き肉/北見式」が特集され、さすが道新、4日には昭和25(1950)北2条西2丁目で北見最初のホルモン焼きを屋台で始めた金山佳生氏(後に「力」経営)の取材記事がありました。また一つ、謎が解けて大変喜んでおります。

 

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