ヌプンケシ232号

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市史編さんニュース NO.232

タイトル ヌプンケシ

平成24年2月1日発行


◎焼き肉の街=北見のこと(3)

◇明治になって

 明治政府は当初肉食を穢(けが)れとする考えをもっていて、明治2年(1869)八丈島で牛一頭を殺して食べたために、23人が処罰された事件があったそうです。 

 これとは反対に明治元年(1868)の「戊辰戦争のとき、奥羽戦役で負傷した官軍の兵士は東京に送られ、和泉橋の大病院牛鍋屋の室内風景の絵に収容され、ここでは旧来の漢方医術によらないで西洋医術を実施し、負傷者には毎日牛肉を食わせて病気の回復をはかった。その結果、それまで食わず嫌いで、肉食を忌避していたこれら負傷兵は、肉食が美味であり、そして栄養上価値のあることを知るにいたって、退院後も彼らのあいだに肉食を恥とすることなく、公然と讃美する者が多くなってきた。そして戦争がすみ、世情も次第におさまるにつれて、一般にも肉食をする者がさらに増加した。しかし彼らは家で肉食することは嫌われるので牛鍋屋へか良い、そのため牛鍋屋が繁盛するにいたり、同時にその客種も変わってきた。従来これらの牛鍋屋の定連は、多くは足軽、中間、下層の武家であったが、今や舶来の知識や風俗になじんだ当時のハイカラ連中や羽振りのよかった薩長出身の官人たちになった。」(『日本畜産史』食肉・乳酪編より)右上の絵は『安愚楽鍋』の挿絵にある牛鍋屋の室内風景で、「ビイル」等の字も読めます。

 決定的だったのは明治5年(1872)に明治天皇が牛肉を食べ、肉食を奨励したことで、一般国民もこれに習い、肉食が急激に普及したのだそうです。

◇違法屠牛の取締り

 牛鍋屋がはやり、牛肉が公然と売買され、消費が大量になるに連れて、屠殺業者も乱立、なかには病牛を肉にする悪徳業者も出てきましたので、明治4年(1871)8月には屠場関係の最初の法令である大蔵省達が出され、屠場の設置を鑑札制にして、設置場所を「人家懸隔の地」とし、病牛死牛の売買を禁止し、産子数確保の観点から牝牛の屠殺を禁止しました。

 これを発端に、各府県それぞれで屠牛および売肉の取締規則を制定していきました。

◇牛缶と日清戦争

 牛肉の消費で無視できないのが、日本陸軍の携行食糧として有名な、牛肉を大和煮した缶詰「牛缶」です。現在でも自衛隊で名をかえて健在だそうです。

 以下の引用は平成14(2002)発行の太平洋戦史シリーズ39『帝国陸軍/戦場の衣食住』からですが、陸軍で缶詰の本格的使用をはじめたのは明治10(1877)の西南戦争からで、その「缶詰は、牛肉に加えて人参・ゴボウ・馬鈴薯(ジャガイモ)を醤油で味付け調理して一缶に詰め合わせたもので、当時としては画期的な缶詰であった。」そうです。

 海軍は明治15(1882)以降艦艇用の保存食糧として「牛缶」を常用していたそうで、陸軍でも明治18(1885)に広島の業者が広島鎮台に「牛缶」を納めたのが最初だったそうです。しかし、保存・運用面でかなり混乱を来たしたため、明治27(1894)の日清戦争勃発を前に、陸軍は海軍から製造技術などの伝授を受けて明治26(1893)に日本人の舌にあう「陸軍の統一した携帯口糧(兵士一人前の食糧―引用者)の副食としての『牛缶』が誕生したのである。」

 「『牛缶』の調達に当たっては、各師団ごとに戦時に対して二〇日分の携帯口糧の備蓄を計画していたために、これに見合う分量の『牛缶』を国内の優良缶詰メーカーより買い上げようとしたが、当時の日本国内の缶詰製造施設が不十分であったために必要量を調達することができなかった。/そのため、陸軍では緊急策として軍御用達の民間組織である『大倉組』に調達を依頼して、不足分を米国で製造することとしたのである。/米国に製造を発注した『牛缶』は、調理法が『醤油煮しめ』式であったので、日本より調味料の醤油をわざわざ米国に運んでいる。」

 ここに登場する「大倉組」は、日清戦争で「牛缶」と称して「缶」に石ころを詰めて軍に納入した悪徳商人としてうわさされたことで有名ですが、別資料によればこの石ころ缶詰事件は大倉組とは全く無関係だったそうです。戦争で儲ける財閥や商人に対する庶民の反感が、そうした風評を立てさせたのでしょう。

 「ちなみに、『日清戦争』勃発に際して献納された『鯨肉』を使って、缶詰製造業の伊谷以二郎が『勇魚大和煮』のレッテルで缶詰に加工し、二八〇〇缶を軍へ献納している。」

 「勇魚(いさな)」とは鯨のことです。筆者が子どもの頃から安くてお世話になった、今は幻の鯨肉の缶詰「鯨の大和煮」が日清戦争の頃からあったことは全然知りませんでした。

 日清戦争後、大量に製造されて余った缶詰は国民に放出されたそうです。

◇日露戦争と牛肉不足

 明治37(1904)から38年までの日露戦争における「『牛缶』をはじめとする缶詰製品についてはどうであったのだろうか。/開戦後の四月~一一月の間に陸軍が民間から買い上げた缶詰量は、九八万貫(三六七五トン。一貫は三・七五キロ)、費用にして二一三万五〇〇〇円であり、戦争全期間にわたって戦地に追送された缶詰量は、九四四万貫(三万五四〇〇トン)であった。/『日露戦争』中の民間からの缶詰買い上げの合計額は、『獣肉缶』一三四一万八七七一円、『鶏肉缶』一九万九六七四円、『魚肉缶』九四八万七六四円で、合計二三〇九万九二〇九円であった。これ以外に米国から『牛缶』一五〇〇貫(約五・六トン)を輸入していた。」

 「なお、戦争後半は牛肉の不足により全面的に魚肉の缶詰が登場している。/これは、国内の食肉牛を総動員しても戦場での需要に追いつかなかったためで、このため陸軍は鮭・鱒・鰯といった『水産缶詰』の採用に踏み切るのである。/水産局の指導下、明治三七年四月より戦争終結までの約一年半の間に、全国一一六の製造所で一二種類の『水産缶詰』が製造され、総供給量は二四八万九〇〇〇貫(九三三三・七五トン)、金額にして五三七万円であった。/この中で『日清戦争』時に誕生した『鰯缶』の供給率は高く、戦争期間中に民間から買い上げた缶詰のうち『軍用鰯缶詰』が六三万八七八貫(約二三六五・八トン)を占めていた。」(以上、『帝国陸軍/戦場の衣食住』より)

 さて、日露戦争で牛肉の値段が高騰したことは大正15(1926)12月発行の『野付牛町誌』にも記されているところで、一時は畜牛飼育がブームになったものの、戦争が終わると価格が下落して衰微したとあります。

 大江志乃夫著『日露戦争と日本軍隊』を見ると、軍用食用に農業用の牛20万頭以上が買上げられたとあり、大濱徹也著『庶民のみた日清・日露戦争』では明治39(1906)3月の『農事雑報』から引用して、日露戦争に際して「全国の牧牛は約二分の一に減じ」たと記しています。このことが戦争後の日本国内農業生産に打撃になったことはいうまでもありません。

 その反面で食肉に関して言えば、軍隊を通して庶民が牛肉の味を覚えたこと、また牛肉不足に対して短期間に肥育しやすい豚が注目され、豚肉の消費が伸びたことが上げられます。(続く)

《分庁舎だより》☆NHK北見放送局開局70周年記念事業として2月4日午後3時30分からサンドーム北見で、里田まい等が出演してセミナー『焼き肉奉行への道』が開催されます。「北見の焼き肉」が道新、NHKと次々にマスコミで取上げられ、筆者も大変よろこんでおります。

 

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