ヌプンケシ233号

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市史編さんニュース NO.233

タイトル ヌプンケシ

平成24年2月15日発行


◎焼き肉の街=北見のこと(4)

◇野付牛最初の屠場は?

 それでは野付牛最初の屠場は、いつ、どこに出来たか?ということになるのですが、市史編さん事務室にある資料を手当たりしだいにひっくり返して見ましたが、関係する情報は出てきませんでした。たとえば、昭和8年(1933)11月発行の『野付牛名鑑』を開いて見ると「屠場は  年の創設にして」と肝心の部分が空白といった有様でした。

 ところが先日偶然開いた、昭和32(1957)発行『北見市史』巻末に掲載された「北見発達史(年表)」の〈明治33年(1900))の項に「平野鈴太郎が川向い(現川東)に屠殺場を経営した。これが北見市における屠場の嚆矢。」とあるのを見つけました。

 昭和32年発行の『北見市史』は、屯田兵出身で郷土史家でもあった池田七郎氏が市制施行の昭和17(1942)から市史編さんのために収集した資料類が基礎になっており、「北見発達史(年表)」も同氏が整理作成したものを掲載したと思われますので、かなり信憑性は高いと筆者は見ています。しかし、同『市史』の関係資料は全く保存されておらず、この記述の根拠が何かが不明なのは残念です。今後も裏付けになる資料・情報を探さねばなりません。

◇平野鈴太郎の略歴

 野付牛最初の屠殺場を経営したとされる平野鈴太郎氏とは、どのような人物だったのでしょうか。昭和60(1985)8月発行『置戸町史』上巻(戦前編)では、次のように紹介されています。
 「平野は石川県から和田村へ屯田兵が入地するとき、御用宿屋として一緒に入村している。明治一九年(一八八六)のことである。当時根室は、ロシアの南下に対する防衛上からも、また千島列島開発に北上する移民団にとっても重要拠点であったので、札幌周辺に次いでの早い屯田兵団の設置である。

 しかし、根室は農耕適地でなかったため、開墾が思うように進まず、給与地の没収処分を受けている者が意外に多い。ところで和田村における平野の消息は根室市史や和田村史にも現れず、往時を知る親族も今はいない現在、その様子は分からないが、同三〇年(一八九七)第四大隊長の小泉正保中佐以下大隊本部員一同が、北見屯田設置準備のため、厚岸、標茶、川湯、小清水、網走を経て野付牛に移住して、二次屯田歩兵第四大隊本部を設置したとき、平野も共に野付牛に来て居を構えている。

 平野の家は代々建築、土木で前田藩の禄をはんでいた家系だが、野付牛に来てからは、呉服雑貨店を経営する一方、大通り東六丁目付近の自宅を仮教授所として開放、児童一〇名内外の教育の場に提供して、北見教育機関の始まりの役を果たしている。また、土木請負業を営み、後に野付牛最初の二階建てによる建物を建築して宿屋も開業し、同三一年には鈴木新之助と図って、排水溝(下水)掘削の寄付をするなど、初期の野付牛開拓にも功労があったといわれる。(北見市史)

 また北見神社の前身である屯田神社設立にあたっては、市街側の委員三名に平野は名を連ねている。実績もあったし、小泉大隊長が平野を実業家として高く評価していたからであろう。」

平野鈴太郎氏写真 「平野と屯田兵のかかわりあいは強い。その足跡をたどってみると、石川県からの屯田兵と共に和田村へ入地、明治三〇年の屯田大隊移動により野付牛に移って手広く事業を行い、俗にいう有士に挙げられている。そして同三六年三月の現役解除によって屯田兵は翌日より軍所属から村の地方自治体所属となり、特殊身分から一般民となった。この年、平野は屯田兵とのかかわりの深い生活に終止符を打ち、和人の誰一人として住んでいない置戸へ移り住んでいるのである。

 時代を読みとる洞察力、これに必要な情報が転げこむ魅力の持ち主であったし、決断する胆力をもっていたのだろう。また置戸に土地を求めた頃は、北海道国有未開地処分法は開墾用地一五〇万坪(五〇〇ha)牧畜用二五〇万坪(八三三ha)植樹用二〇〇万坪(六七七ha)、これが会社または組合にはその二倍まで貸しつけるとした資本家招来時代の土地払い下げであり、置戸に多くの土地を求めることができた。正確な数字は算出できないが、伊藤組が所有していた北光などの山林や市街宅地(昔は宅地ではなかった)、置戸駅前付近と宮坂伊藤組付近工場地帯、川向などがそれで、約一〇〇〇町歩とみられている。」(左上の写真は『置戸町史』上巻にある平野鈴太郎氏の肖像写真です。)

 最大限の払下げで広大な原野を手に入れた平野氏は農牧場を開くと共に、明治44(1911)の網走本線開通に合せて駅前に旅館や運送業を開店するなどの事業を展開しましたが、大正2年(1913)4月30日に62歳で亡くなりました。なお、同氏の戸籍は当市にあったらしいのですが、昭和7年(1932)5月23日の町役場火事で焼失し、今のところ生年月日は不明です。

◇明治33年の屠場は第四大隊本部と関係か?

 これまで筆者が野付牛の屯田兵や北光社移民団の聞取り記録等を見てきた限りでは、明治33年頃に屯田兵・開拓民が牛肉や豚肉を食べたという記述は記憶にありません。

 従って、先に引用した略歴にあるとおり平野氏は屯田兵幹部との結びつきの強い人物でしたから、明治33年に屠場を始めたのも大隊本部の幹部用に食肉を納めるためだったと筆者は推論しています。しかも、明治36(1903)には第四大隊も解散し、平野氏は野付牛を去って置戸に移住していますから、この屠場は短命で一般庶民には関係なかったのではないでしょうか。

◇一般庶民はどのような肉を食べていたのか?

 それでは一般庶民はどのような肉を食べていたのでしょうか。記録を見ると、野ウサギを簡単な罠でたくさん獲ったようです。ウサギは昔から「一羽二羽」と数えられたように、長い耳を羽に見立てて鳥の類として食されてきましたから、庶民には抵抗感がなかったようです。

 昭和61(1986)4月発行の『聞き書 北海道の食事』では、札幌周辺での開拓期のこととして「北海道で一般庶民の食用肉として最初に登場するのが、鹿肉である。札幌農学校の洋食がそうであったように、開拓期にはえぞ鹿が各地に生息しており、肉といえば鹿肉を用いることが多く、焼きもの、揚げもの、煮ものなどがつくられている。また、町でも鹿肉が売られ、札幌の料理店では鹿肉のなべもの(鹿肉台なべ)を出す店もあった。農村においても鹿肉を塩漬にして保存し、冬期間の食糧あるいは強壮薬として使った例もある。」と記述されています。

 昭和32年発行『北見市史』に「アイヌの酋長エレツコ」という章があり、エレツコ(別称エレコーク)が原野に仕掛弓を多数仕かけて「狩猟をしていたので鹿の肉も豊富だった。(中略)一頭分三円であつたので酋長の家をシャモ(和人)がかわるがわる訪れた。」そうで、焼酎と鹿肉とを物々交換したともあります。現在、鹿の過剰繁殖による食害が問題になっていますが、開拓期と同じく焼き肉の材料として鹿肉の活用を考えてみてはいかがでしょうか。(続く)

 

《分庁舎だより》☆前述のように平野氏の生年月日を確認する為に除籍調査をしたのですが、結果はご覧のとおりです。この町役場の火事は全く研究者泣かせで、これまで何度も調査が中断しました。市民の財産である公文書等を安全に永久保存することは、今後も絶対必要です。

 

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