ヌプンケシ234号

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市史編さんニュース NO.234

タイトル ヌプンケシ

平成24年3月1日発行


◎焼き肉の街=北見のこと(5)

◇『屠場法』公布

 さて、屠場および食肉販売の取締りは各道府県でまちまちに行われていましたが、日清・日露の戦争でさらに食肉の需要が増すに連れて、不衛生な屠場が乱立し、食肉衛生上憂慮すべき状態となりましたので、明治39(1906)4月11日『屠場法』が公布されて、(1)屠場の許可制、(2)屠場以外での屠殺の原則禁止、(3)屠畜検査、(4)構造設備基準、(5)屠場の公営化措置を定めました。これより、一応全国どこでも安全で衛生的な食肉供給の体制が整えられました。

◇野付牛で『屠場法』公布後の屠場はいつ開設したか?

 それでは平野鈴太郎が経営した屠場が開設されたという明治33(1900)以後、明治39(1906)の『屠場法』公布後の野付牛の屠場はいつ、どこに出来たか、ということになるのですが、当室にある各種資料では具体的な資料・情報は出てきませんでした。

 次に北海道立図書館の蔵書をインターネットで検索したところ、昭和34(1959)に北海道食肉協会が発行した『北海道食肉名鑑』を見つけましたので、すぐに市立図書館にお願いして借りてもらいました。

◇『北海道食肉名鑑』では「明治40年(1907)」

 これが「当り」で、同書には「食肉の歴史と北海道」、「道内各地における食肉業界の歩み」が掲載されていました。その〈北見編〉の全文は次のとおりです。

 「北見市にと場が設置されたのは『と場法』公布以後のことで、明治四十年(戸長役場時代)に田尾民五郎氏の経営する牧場内に畜肉のと場が開設されたのが最初である。その時の検査医は北村獣医で肉の販売は岡村、田村、浜岡の三代であつた。これが北見市における売肉の始まりであると想われる。その後明治四十二年に二級町村制が布かれ、各地よりの入植者がはいつて人口が増えてきたが、大正六年五月に札幌より小西丑蔵氏、同年十月旭川より今井弥平氏、翌七年十月に置戸より横山氏、そして地元の木原氏が肉屋を開業、前記の三氏と合せて七店となった。

 かくて大正九年には、と場は町営となり、野付牛町浜村(兵村の間違い―引用者)二区に移転され、さらに十二年に森永町に移転経営された。

 昭和三年一月に肉商の申し合わせ組合が結成され、組合長に浜岡氏が就任した。この時から組合の経済活動がはじまつたが、これを契機に道内外畜肉の移出が開始され、次第に活気をおびるに至つた。

 昭和七年に組合長が浜岡氏にかわつて宮本与四郎氏に、同十三年には安達正勝氏が就任して十二年間を務め、二十二年に小西清一氏に変つたが、三十四年一月に組合の制度を改め、役員を理事制にし、初代理事長として宮本与四郎氏が就任した。」(原文のママ)

なお、引用文中の「屠場」のことが「と場」と書かれているのは、昭和21(1946)に文部省が公布した「当用漢字」の中に「屠」がなかったため、こうした表記になっているのです。 

◇『産業調査報告書』によれば「明治44(1911)4月」

「産業調査報告書」の表 やれやれ、これで「明治40 (1907)」に『屠場法』公付後の屠場開設で一件落着と思ったのですが、同じ『名鑑』の7ページに明治45(1912)1月調査の「産業調査報告書」から転載された右に提示した表があり、左から3番目に網走支庁行政区域内の「田尾屠獣場」が「私立」で「明治四四年四月」に設立認可とあります。

では、明治40年と44年のどちらが正しいのでしょうか。

 平成8年(1996)3月発行の『北見酪農史』によれば、「明治40年、現在の東陵一帯に牧場を開設していた田尾民五郎が肉と乳兼用のエアーシャー牛15頭を網走から買い入れて飼育したが、現北見市に於ける最初の畜牛である。」とありますから、明治40年は同氏が牛を買い入れた年と考えた方が良いと思います。

 屠場で牛や豚を処理して肉にしても、販売先がなければ全く意味がないわけですが、当地で最初に本格的な西洋料理を提供した「明玉軒」は、当ニュース198号でレポートしたとおり、筆者は明治44年9月の野付牛駅の正式開駅とあわせて開業したと推定しています。

◇野付牛最初のお肉屋さんは?

 『北見新聞』の特集「街」の昭和39(1964)5月28日付に、瀬川勇助氏を取材した記事があり、大正元年頃「街に肉屋はなかったが、高台の大丸牧場の牛が熊に襲われて殺された事件があった。久しぶりに牛肉をたらふくご馳走になった思い出がある」と書いてあります。

 瀬川氏の生涯については吉田邦子さんが平成10(1998)3月発行の『野付牛の名物豆腐屋~瀬川勇助さん~』にまとめられていますが、瀬川氏が当地に来た年については必ずしも明確ではありません。しかし、前記特集「街」の昭和39年5月27日の記事に、「瀬川勇助さん(現在大ノ西七)は、大正元年の春、陸別から建設列車に便乗して野付牛入りした。/瀬川さんは建築職人として若松温泉、若松橋などを手掛けた人(後略)」とあります。建設列車が野付牛にきたのは明治4310月で、明治44年9月の正式開駅まで運行されています。また、若松橋の工事は明治44年の秋に着工、翌45年4月に落成していますから、総合すると瀬川氏は大正元年ではなく、明治44年春に野付牛にやってきたと考えて間違いないでしょう。ですから、「街に肉屋がなかった」という話は、明治44年春から大正元年までの間のことと推定されます。

 先の『名鑑』で肉販売の筆頭にある岡村氏については全く情報がありませんが、続く田村氏は後に布団店を営む「田村源次郎」氏のことでしょう。同氏については昭和32(1957)発行『北見市史』で、明治45(1912)頃に入地して「東四丁目現在のところで精肉販売業を始めたが千客万来の賑わいを見せていた。」とありますから、同氏が野付牛最初のお肉屋さんと思われます。

◇明治44年4月が妥当

 以上の傍証から、「田尾屠獣場」も明治43年の建設列車到着による人口急増と比例した食肉需要に対応して「明治44年4月」に開設されたと考えるのが妥当でしょう。

 なお「田尾屠獣場」の場所ですが、紙面の都合で割愛しますが、野付牛の明治・大正時代の風景や風俗を絵で書き遺した西村肇氏の作品、「東小学校開校」の説明部分に競馬場の「其の前の小舎は田尾屠殺場」とありますから、現在の東陵運動公園近辺だったようです。(続く)           

 

《分庁舎だより》☆野付牛外一箇村戸長役場の建物図面を調査してみましたが、当市にはありませんでした。情報を集めてみると、旭川市で明治26(1893)建設の永山戸長役場が復元されていましたので、旭川市市史編集担当の方に図面類を送って頂きました。ご協力に感謝、感謝。

 

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