ヌプンケシ236号

 〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹   TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.236

タイトル ヌプンケシ

平成24年4月1日発行


◎焼き肉の街=北見のこと(7)

◇野付牛で最初の洋食は?

 肉食に関係して、野付牛での西洋料理=洋食の最初はどうだったのでしょうか。

 昭和31(1956)7月20日発行『家庭北見新聞』に掲載された「開基小ばなし」で「水持つて来い」と題して、執筆者池田七郎氏が最初に食した「洋食」を次のように書いています。

 「明治四十二年北見最初の村会があり、議会を終つて市川料亭で食事をとつたが、これが洋食第一号のライスカレーだつた。/添えてあるコップの水をどうするのか判らない。お互いに聞くのは恥とばかり使用百態最初に使つてしまつた。しかもスプーンははじめて、口ばたはカレーだらけ正に妖怪変化会食の図となつたが、互に黙々たるシカメつらで食つてのけた。までは良かつたが/『口の中が火事だあ!』」

 明治42(1909)7月1日に田尾民五郎氏が経営する駅逓の駅舎で村会が開催され、その後に隣接した市川料亭(旅館兼業)でライスカレーを食べたのが池田氏としては洋食の第一号であったということです。インターネットの情報を見ると、カレーは明治時代最先端の洋食であったようですから、野付牛の街は結構進んでいたのですね。

◇野付牛で最初の西洋料理店、明玉軒の写った絵葉書を発見

 米国帰りの児玉兼次氏が明治44(1911)に野付牛で本格的な洋食を提供する明玉軒を開業した、と筆者は推定していますが、最近、自宅で北海道立図書館のデジタルライブラリを見ていましたら、大正時代に発行されたとみられる『野付牛町風景絵葉書』セットで、偶然「野付牛停車場」と題した一枚の絵葉書に明玉軒が写っているのを見つけました。明玉軒の写真『明玉軒』絵葉書をこれまでずっと探していたので、つい小躍りしてしまいました。

 前ページの写真は、右側の明玉軒の部分を拡大したものです。写真が不鮮明でわかりにくいかもしれませんが、屋根の看板には「西洋御料理」とあり、その下の長い看板には「米国式洋食○食藪蕎麦」とあります。○は電信柱で見えない部分ですが、それは多分「和」食でしょう。右脇の看板には「生そば」とあります。2階建の明玉軒の隣、平屋の大きな看板は「児玉待合」と読めます。一番左端の建物の屋根には「市川待合所」の看板があります。その児玉待合と市川待合所の間の、2階建物も児玉氏のものかもしれません。

 大正時代の釧路新聞を読むと、明玉軒が各種会合、会食に利用されている記事をよくみかけたのですが、この写真をみてその大きさから納得したしだいです。

 明玉軒の「米国式洋食」とはどのようなものだったのでしょうか。メニューが気になりますが、何も資料はありません。一般庶民はフォークとナイフの使い方も分らず、手づかみで食べたお客さんがいたそうです。駅前の食事処としては、庶民に気遣って「和食」「蕎麦」も食べられることを看板に掲げなくてはならなったのでしょう。

 大正時代も後半になると、大正10(1921)に3条西3丁目に河西軒が、同12(1923)には1条西1丁目に会陽軒が開店し、洋食もすっかり一般的になったようです。同12年8月発行の『野付牛総覧』を見ると、この2軒の他に「花月亭」という店も稲荷小路にあって、同様に「西洋料理 撞球」を営業していたとのことです。

◇マル丹の電気肉ナベ

 昭和46(1971)9月19日付『北海道新聞』特集「ハッカ物語」〈洋食文明〉によれば、駅前の1条西1丁目角の肉屋(丹)濱岡に併設されていた食堂も大層繁盛していたそうです。ここは『郷土料理のコツ』の著者、有名料理人の長尾市治郎氏が最初に修業した食堂でもありました。

『マル丹』絵葉書 「ふところに百円札をギッシリ詰め、洋食は食べたいけれども行きにくい思いをしていたハッカ商人やマチの人に愛用されたのが一条通り、マルヨ食堂の場所にあったマル丹、浜岡。ここの電気肉ナベは有名で『今晩、マル丹で肉をおごるよ』なんていうのが、ごちそうの代名詞になっていた。/『電気ナベは三人家族で使うと月四円五十銭かかるから、経済的だとはいえないが、マキのようにお座敷のチリがたたない、タタミをこがす気づかいもない。第一時間の経済である』―。こんな調子でマル丹の電気ナベに感心している新聞記事もある。」

 野付牛で電灯がついたのは大正4年(1915)のことで、電気代も相当高かった時代に電気で牛肉鍋を調理したなんて、大変ハイカラなことだったでしょう。もちろん、この食堂も上の絵葉書のとおり、当然のように洋食を看板の一つに掲げています。この濱岡肉店と食堂は昭和7年(1932)頃には廃業し、その建物を昭和8年開業したマルヨ食堂に譲渡したようです。

 以上見たとおり、当市では明治末から食肉する洋食文化が移入され、それを支える屠場があったことが、戦後における当市の焼き肉文化の基礎であることは間違いないでしょう。(続く)

《分庁舎だより》☆3月末で金村主幹が定年退職され、常松嘱託員も退職されました。金村主幹には平成22年4月から、常松嘱託員には同214月から大変お世話になりました。お二人にはますますお元気で今後とも市史編さんにご指導、ご鞭撻くださいますようお願いいたします。()

 

NO.237へ

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館