ヌプンケシ239号

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市史編さんニュース NO.239

タイトル ヌプンケシ

平成24年5月15日発行


◎北見の米づくりと三輪光儀(1)

 現在、筆者は市民向け歴史ガイド、仮題『北見の歴史案内』を執筆中で、その項目の一つ、「北見での米作り」を調査したのですが、その過程で明らかになった第2代屯田歩兵第四大隊長三輪光儀氏のことを紹介したいと思います。初回は北海道の米作りを概観してみましょう。

◇蝦夷地の米づくり

 ご存知のとおり、幕藩体制において米がとれない松前藩には通常の大名のように石高を示す書状は与えられませんでした。かわりに徳川家康から松前藩に与えられた黒印状は他藩と異なり、アイヌとの交易を認める「定」(さだめ)という形式で発給されました。

 それでも、貞享2年(1685)渡島国亀田郡文月村字押上(現大野町)で高田吉右衛門という人が水田をいくらか開いたという話が伝わっています。また元禄5年(1692)には野田作右衛門が東部亀田で新田を試み、2~3年で廃止したという記録があるそうです。その後も道南で米作りが試みられましたが、ことごとく失敗したようです。その考えられる失敗の主な理由は、一つは北海道の寒さに耐える品種がなかったこと、もう一つは温暖な本州での栽培方法を寒冷な北海道でそのまま適用したことでした。

◇開拓使と米づくり

 明治時代、本州で貧農や小作農であった開拓農民や屯田兵には自分が開墾した田圃で米を作り、腹一杯米飯を食うのが夢でした。その思いは平成14(2002)5月発行、佐々木多喜雄著『北海道「水田発祥の地」記念碑』に掲載された、全道各地にのこる碑に感じとることができます。

 しかし、開拓使は当初ケプロン達、お雇い外国人が建策した開拓計画によって開拓を進めようとし、「北海道の開拓は欧米型の畑作牧畜を中心とした農業を定着させ、移住民の生活を欧米風の生活様式に改良することを開拓計画の柱としたものであった。広大な未墾地を有し、かつ寒冷な土地である北海道の開拓は、稲作を中心とした従来の日本の農法や生活法で『中山久蔵』写真は不利であり、新しい時代の新しい土地での農業には畑作牧畜が適したものである、というのが黒田清隆を中心とした開拓使の考え方であった。」(北の生活文庫第5巻『北海道の衣食と住まい』より)

 こうして開拓使の方針として稲作は否定され、畑作を中心とした農業開拓が進められましたが、開拓使の時代には大きな成果をあげることができませんでした。初期屯田では、米作りは禁止されました。

◇中山久蔵(右の写真の人)

 こうした中で石狩地方において米作りに成果をあげたのが、札幌郡月寒村島松沢の開拓農民中山久蔵でした。彼は独自の考えで明治6年(1873)に道南の大野村から「赤毛」を取寄せ、水田を風呂の湯で暖めるなど工夫して試作に成功し、安定して収穫ができるようになりました。なお、赤毛の呼称は芒(のぎ、稲の外側の先にある固い毛)が赤いことからきています。中山は自作の種籾を、米作りを希望する人たちに無償で配布しました。この耐寒性のある赤毛の発見と普及によって、民間での米作りは石狩地方から空知地方に拡大してきましたが、以前として官側は稲作に否定的でした。

◇明治10(1877)、札幌でも米の試作に成功

 最近見つけた資料によると、明治10年に札幌で最初に米作りに成功した例があるそうです。その資料、平成23(2011)9月発行の北海学園大学開発研究所『開発論集』第88号所載、黒田重雄氏の論文『札幌の偉人・上島正に関する一考察』によると、その米作りに成功した上島正(かみじま ただし)氏は札幌歴史資料館で「札幌の歴史を築いた先人達」として列挙されいるうちの一人で、その功績としては花園「東皐園」の開設、諏訪大社から分霊した札幌諏訪神社を最初に建立したことがあるそうです。

 同論文によれば、上島氏は天保9年(1838)5月15日、上諏訪(長野県諏訪郡南村南真志野)の髙島藩の代々普請奉行であった家に生れましたが、幕末の動乱期に武家を捨て、町人になり、町屋に奉公したり、行商人をしたりするなどして過ごし、明治7年(1874)の地租改正に伴い東京に出て測量士を仕事として東京近傍を測量してまわりました。その測量の弟子の中に、北海道出身者がおり、その者の話から北海道に興味を持ち、明治10年5月に札幌にやってきました。札幌で無為に過ごすのも馬鹿らしいので、水田の出来そうなところを見つけて稲を植えてはどうかと思いたち、開拓使の役人に土地と稲の苗を確保する願書を提出して却下されて、直談判にしたところ、山師扱いされてしまいます。それで下宿先の高橋亀次郎氏に相談して共に米を試作することになり、月寒にあった高橋氏の土地と、他に札幌村の郊外にも土地を借り、2か所に水田を作り、秋には無類の出来であったそうです。あわせて開拓使に測量官として勤めることもでき、造園にも手をそめました。こうして北海道永住の自信を得た上島氏は、明治11年故郷の家を引き払い、一家をあげて札幌に移りました。明治11年にも1反半を耕して生姜や田芋を植えて300円の収穫、その翌年には何を栽培したかは不明ですが、6反耕して300余円の収穫があったそうで、当時の300円は現在の価値に換算すると300万円程度になるそうです。

◇「厚別開拓の父」河西由造

 同論文が上島氏の隠れた功績としてあげているのは、上諏訪から「厚別開拓の父」といわれる河西由造など大勢の入植者を連れてきたことでした。上島氏は明治15(1882)上諏訪に赴き、自身の成功をもとに北海道移住を勧奨してまわりました。紆余曲折はありましたが、その呼びかけに応じて30余名が札幌にきて、持参金の多かった人は土地を購入し、少ない者は開拓に散っていきました。中でも明治16年4月に厚別に入植した河西由造氏ら8名は水田を作って成功しましたが、彼らがすぐに米作りができたのも、上島氏の前例があったからだったようです。

 平成22(2010)4月発行の『厚別中央 人と歴史』には「入植する際、由造たちは、一戸一万坪の未開地を借り受けています。初めて作った田から、3、4俵の米が収穫できるようになり、厚別の水田造りに自信を持つようになりました。/明治19年には、貸与・払い下げの制度ができ、既墾地は給与され、さらに、10万坪に限り追加貸与されています。」とあります。河西氏は小作人をいれて経営を拡大、明治45(1912)時点で水田55町歩、畑25町歩の農場主になりました。同氏の米作による成功は近隣開拓民・屯田兵には大変な刺激となりました。(続く)

 

《分庁舎だより》☆4月27日、仮称『新北見市史』の平成30年度発刊に向けて北見市史編集委員会が始動しました。北見自治区から伊藤公平氏・久保勝範氏・福澤明氏・扇谷チヱ子氏、端野自治区から海野勲氏・石井健一氏、常呂自治区から佐々木覚氏・熊木俊朗氏、留辺蘂自治区から渡部俊雄氏・中川功氏、以上10名の方々が編集委員として小谷市長から委嘱されました。編集委員長には伊藤委員が選出され、副編集委員長には中川委員がなりました。任期は本年4月1日から平成30(2018)3月31日までです。本年度は月1回のペースで委員会を開催し、同史の内容、目次大綱、執筆分担などについて決める予定で、事務方もい良いよ忙しくなります。()

 

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