ヌプンケシ240号

 〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹   TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.240

タイトル ヌプンケシ

平成24年6月1日発行


◎北見の米づくりと三輪光儀(2)

◇開拓使生産掛と米づくり

 平成18(2006)4月に刊行された富士田金輔氏著『ケプロンの教えと現術生徒』は、北海道立文書館に保存されている開拓使文書を丹念に調べて、開拓使が養成した西洋農業の技術者「現術生徒」が、札幌官園を拠点に明治5年(1872)4月から明治14(1881)いっぱいまで活動した業績を明らかにした労作です。

 同書によれば、開拓使の生産掛では明治4年(1871)に水田を札幌に造成し、翌5年には開拓使最初の田植えを実施しましたが、「実入無之」に終わったそうです。次の明治6年も失敗。同7年には陸稲を試すことにして、本州に種籾を発注しましたが数量不足で到着が遅れ、これも失敗しました。しかし同年、農家が栽培した水稲は成績良好でした。明治8年には周辺の村々から水稲の種籾の注文が寄せられ、開拓使は札幌村、大野村、七重村から調達して配ったとのことです。富士田氏は当該調査から「開拓使の米づくりへの関わりは、消極的・傍観者的ではなくむしろ積極的に関わっていたことが分かる。」としています。これは筆者の解釈ですが、開拓使上層部が明治6年9月提出等の一連のケプロン報告書(畑作中心・米作否定)を採用したものの、農民の要求に直結した現場=生産掛では米づくりを試行していたということでしょう。

◇北垣長官による方針転換

 官上層部が公に米作りを肯定したのは、明治19(1886)北海道庁設置以降のことでした。

 明治25(1892)に北海道庁長官になった北垣国道氏(18361916)は、道内を視察、米作りの実態もみて、積極的な稲作奨励に方針をかえました。開拓の進展に伴い、明治20年代の道内人口は増加し、食糧の自給は北海道庁の急務ともなり、また明治末期からの米価上昇傾向のなかで、米は他の農産物に比べて有利な作物にもなったのです。

 米作の権威で当時農商務省農務局第一課長の要職にあった酒勾(さこう)常明氏(18611909)は、北垣長官の要請で明治25年末に道庁の財務部長に就任し、積極的に稲作の奨励にのりだしました。明治26年4月、上白石村、同年秋には真駒内および亀田に稲作試験場を設けました。上白石村の試験地では米作りでの農耕期間を短縮する方法として苗の育成と田植えを省いた、籾を水田に直接播く直播法を3年間研究し、その有利性を確認しました。

◇屯田兵の米試作

 民間で米作りが成功する中で、屯田兵の中でも米作りを試みる者が出てきました。昭和18(1943)3月発行の『開拓血涙史』で、江別屯田の吉原兵次郎氏が次のように語っています。

 「(前略)明治十八年頃より米の試植をやっていたが、茎は伸びるがいざとなると、霜が来るので、実が出来ない状態であった。しかし、兎も角、北海道で米が出来たと云うのだが――何しろ軍律がやかましく、屯田兵は隣村にさえ足を踏み込むことが出来ない。それで、家族が隠れて、水田の試植を見にいく有様であった。北海道に水田を作るということは、北大の前身の農学校が、北海道で水田を作ることは危険だと云い、道庁がそれに共鳴し、屯田司令部も又それに共鳴したので、水田を作ることは罪悪のよう考えられていた。で水田を見に行った家族を下士官が引っぱって来て、中隊本部で詰問する。上官の命に服せず、水田を作って牢屋に入れられたと云うのも、事実でありますが、その後、僅か二年程経つと、道庁から米を作れ作れと盛んに奨めるようになった。われわれは、練兵に出ておっても、苗が何寸伸びたかということを心配しておったこともあるが、それ以後全道に、水田がどんどん増えたのであります。」

 小田邦雄著『屯田兵生活考』でも、野幌兵村の鈴木勝二氏が次のように証言しています。

 「明治二十二、三年頃に初めて水稲の試植をしました。厚別というところで、こっそり川西という人が試植をしたところが、米がとれたのです。その以前にも試植しましたが、稲が充分に伸びぬうちに霜がくるので成功しなかったのです。/札幌農学校や道庁では、米を作ることは初めから危険視していたものですから、屯田兵の本部が米を作ることは罪悪を犯すことのように考えていたわけです。当時、米をひそかに作って中隊長から呼び出されて叱られ、牢屋に入れられた人もあったのです。しかし二三年経ってから、道庁ではむしろ米作を奨めるようになり、これなら北海道も住みいいと思い、骨を埋める気持ちになったものでした。」(誤字訂正)

 この引用にある「川西」とは、前号で紹介した「河西由造」のことではないでしょうか。

◇屯田兵の稲作禁止と家族諸共営倉入りは事実

 さて、前掲の『ケプロンの教えと現術生徒』で筆者がもう一つ注目したのは次の部分です。

 明治「十三年からは屯田兵村(琴似村、山鼻村)でも米づくりが始まる。琴似村では十三年三月、屯田事務局を通じて勧業課へ大野村産種籾の申し込みがあり、育種場で収穫して大野村産種籾が同月中に屯田事務局に渡されている。また、山鼻村では十三年収穫の稲を同年札幌で開かれた農業仮博覧会に出品している。このことは、従来伝えられてきた『屯田兵は稲作が禁止されていて、違反すると営倉に入れられた』という話を打ち消すものである。」

 稲作禁止に関して、平成18(2006)8月発行の『札幌の歴史』第51号に西田秀子さんという方が書かれた『屯田兵の稲作願望』という論文を見つけました。同論文は、副題に「『水田同志名簿』(明治二〇年)の顛末」とあるように、明治20(1887)「稲作を禁止されていたとされる野幌、江別両屯田兵員とその家族が、稲作のため同志を募り、隣村の白石村(現札幌市白石・厚別区)の地主河西由造に、土地の譲渡を願いでたことの顛末を紹介した」ものです。

 同論文を要約すると、明治21年に扶助米の支給が打切られることに危機感をもった江別、野幌の両兵村の隠居たちが相談して、明治20年2月、3233人が連署、押印した「水田同志名簿」を作成し、白石村の河西宗蔵氏に渡しました。開墾に成功して、勢いのある由造氏ら農場の米作りをみた屯田兵の隠居たちは、屯田兵では差し障りがあるので、宗蔵氏名義で札幌県から土地10万坪の貸し付けを受けてもらい、そのうち9万6千坪(32町歩)を、自分たち32戸に1町歩ずつ譲渡(あるいは小作に)してほしいと、懇願したのでした。宗蔵氏は河西由造氏の伯父で、事後処理を由造氏に託したとのことです。その結果、明治21年3月から明治23年までに、名簿に記載のない3戸も含めて1526人が白石村に移住しました。これに対して、屯田第2中隊は「家族諸共営倉」に入れる処罰を下しましたが、河西氏が中隊本部と交渉し、屯田兵員家族が稲作に従事できるよう、通い墾や転住の便宜を図ったようだとのことです。

 「家族諸共営倉」入りは、『野幌兵村史』にも証言があり、実際にあった話だったのです。

 野幌兵村で「稲作に着手できる時期が到来したのは、兵員が現役を終え、明治二四年四月に予備役に編入されてからである。」「予備役四年間は、中隊長の指揮下にあるものの、農耕と農産物の収穫を副業的に行うことになった。」

 紙面が足りないので詳しくは同論文を読んで頂くとして、「稲作禁止は、兵役が現役の期間に限り禁止されていたと考えて、差し支えないようだ。」と西田さんは結論されています。(続く)

 

《分庁舎だより》☆先に紹介した『ケプロンの教えと現術生徒』、『札幌の歴史』第51号の西田論文をはじめ、知らないうちに新しい研究が次々発表されています。先行研究と最新研究の成果を、市史に取り入れていかなくてはなりません。皆様からのご教示をお願いいたします。()

 

NO.241へ

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館