ヌプンケシ242号

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市史編さんニュース NO.242

タイトル ヌプンケシ

平成24年7月1日発行


◎北見の米づくりと三輪光儀(4)

◇北見屯田米試作についての『北見市史』上巻の見解

 昭和56(1981)発刊の『北見市史』上巻には、屯田兵茶木与三氏の「農事日記」の明治35(1902)4月24日に水田造成の記事があることから、「この頃から一部屯田兵の間で水稲の試作をしつつあったことが知られる。」と書かれています。また「屯田兵の開墾に当っては従来稲作を禁じていた。新開地の開墾を第一に、且つ造田に要する経費のために、生計が乏しいのに更に負担をかけることは開墾に支障を来たすという観点から当分造田、米作は禁じて来た。しかし、他移住民地での造田が盛んになり、北見屯田の屯田兵の中にも郷里の米作が忘れられず米作に意欲を燃やしている者がある等から、二代目大隊長三輪中佐は将来の造田のために灌漑溝開削を考えるようになった。」とあり、以上が従来の当市史での屯田兵米試作の見解でした。

◇命令による米の試作

 ところが出典は明らかではありませんが、前掲の『北見農業試験場70年のあゆみ』には「特に注目されるのは、明治33(1900)の野付牛、湧別屯田の中隊命令による試作である。」とあり、北見屯田でも公然と米の試作が行われていたようです。前掲『開拓血涙史』にもそれを補強する、野付牛屯田の池田七郎氏による次の証言があります。

『三輪 光儀氏』写真 「私の方は、大隊長が水田を奨励しまして、大隊長の命令で、水田を作りましたが、不幸にして成功しなかったのであります。最近は幾らか穫れるようになりましたが、試植的にやったのは、明治三十二年頃からで、その後もずっと試植しておりましたが、全般的に土地がよくなかっ

た。今でも、土地が北辺に偏在している関係で、充分ではありません。」

 池田氏は明治31年(1898)の入地ですから、彼が言っている大隊長とは三輪光儀氏のことです。(右は、三輪光儀氏の写真です。)

◇三輪大隊長の略歴

 三輪大隊長の略歴を『北見市史』上巻の記述を基に見てみましょう。

 三輪光儀氏は熊本市東坪井町に平藩士の父藤一、母八代の長男として慶応元年(186512月7日生れました。父親は早く没したらしく、彼は18歳の若さで戸主になって明治16(1883)陸軍士官学校入学許可を受け、19(1886)6月卒業し、陸軍少尉に任官しました。

 明治22(1889)4月、陸軍屯田歩兵少尉に任じられて北海道に渡り、24年に屯田歩兵中尉に進級、26(1893)屯田歩兵大尉に昇進すると屯田歩兵第3大隊(当麻屯田)の第5中隊長に任命されました。当麻屯田での三輪中隊長は、軍事訓練に重点をおくと共に、屯田兵一家の将来を重視して農業の推進に特段の意を用い、彼自身が「当麻村農産物品評会会長」に就任して例年優秀屯田兵に賞状を授与しました。

 明治29(1896)5月陸軍歩兵大尉に昇進すると同時に台湾の独立歩兵大隊の中隊長となって赴任。30年陸軍歩兵少佐に進級。初代大隊長小泉正保の後を継いで、31年に屯田歩兵第四大隊長に着任、明治35(1902)2月に歩兵第28連隊第2大隊長になって旭川に転出しました。転出後、日露戦争に参戦、各地を転戦。その詳細は『北見市史』上巻を見て頂くこととして、明治44(1911)9月陸軍少将に昇進すると共に退役しました。それ以来東京に在住、昭和14(1939)101274歳で死去しました。

◇三輪氏は札幌農学校の嘱託講師だった。

 これまでの三輪氏の略歴については、この『北見市史』上巻以上の情報はなかったのですが、先日、同僚の小野寺嘱託員と話していたところ、同嘱託員が以前読んだ本の中に三輪氏が札幌農学校(現・北海道大学)に関係していた、とあったのを記憶しているとのことでした。

 そこで各種資料を探索したところ、昭和57(1982)7月発行『北大百年史』通説162ページの「付表二 札幌農学校の雇教員・嘱託講師(一八八七~一九〇七)」に、三輪氏の名前を見つけました。その表によると、三輪氏が陸軍屯田歩兵中尉の身分で、明治24(1891)7月から同25(1892)8月まで「兵学科」を担当していた、とありました。これで、三輪氏が札幌農学校の嘱託講師だったことが確認できました。

 『北大百年史』通説によれば、明治22(1889)9月の「兵学科の設置と相前後して、札幌農学校に兵学科別課生が置かれた。従来屯田兵では下士官から士官を採用していたが、陸軍進級条例の変更によりそれができなくなった。そのため北海道長官の命により、一八八九年十一月屯田兵曹長免官の者二四名を入学させ、一年間の課程で士官養成に必要な軍事教授を行うことになったのである。彼らは翌年八月に卒業し、多くは屯田兵少尉となった。また一八九一年(明治二四)一月札幌農学校官制中に、札幌農学校は『屯田兵予備下士ニ屯田兵予備将校ニ要スル軍事上ノ学術技芸ヲ教授ス』との一項が追加され、同年五月三十日に、予備役に編入されていた屯田兵曹長および軍曹一八名を入学させ、やはり一年間の課程で軍事教育を施した。一八八九年入学の者も九一年入学の者も兵学科別課生と呼ばれたが、一八九二年三月、さきの一八名が卒業後は、屯田兵側の都合により兵学科別課生は廃止された。」

 引用文冒頭の「兵学科」は明治24(1891)には廃止が決定されていて、在学していた4名は農学科に編入されましたから、三輪が講師を務めたのは「兵学科別課」ということになります。 ここで重要なのは、三輪が嘱託講師であったにしても、当時北海道農業研究の最先端にあった札幌農学校の空気に触れていたことです。そこで三輪は軍事だけでなく、農業が北海道の将来に不可欠であることを教授陣との交流の中で認識したであろうことは十分想像できます。

◇当麻屯田の稲作試行と三輪

 三輪が中隊長として赴任した当麻屯田は、永山屯田に続いて米作した先進地でした。平成14(2002)3月発行『新旭川市史』第2巻〈当麻兵村の稲作試行〉に次の記述があります。

 「当麻兵村の入植は明治二十六年(一八九三)五月のことである。『上川屯田概略』に記述されている古老の座談会によれば、入植初年早くも第五中隊(西当麻兵村)の徳島出身佐々木友太郎(兵屋番号一四三)が郷里から持参の陸稲を試植したが、結実を見ることなく失敗した。これからみるように農民出身者で、郷里の種籾を入植地で試作した例は、決してまれではなかったのではないかと察せられる。入植時は他の兵村と同様、中隊長から稲作は固く禁止されていた。にもかかわらず佐々木は翌二十七年にも試作し、この年は上白石稲作試験場から得た赤毛の陸稲を試植して結実し、中隊長から同年十一月三日付で褒状を授与されたという。以上は座談会の記録に基づくものであるが、これによれば二十七年になると、水稲栽培の禁令は事実上消滅したと思われる。」

 札幌農学校の講師で培われた見識が活かされたのでしょう、当麻で米を試作した佐々木友太郎に褒状(ほうじょう、賞状のこと)を授与した中隊長こそ、三輪光儀だったのです。(続く)

《分庁舎だより》☆市民の財産がまた増えました。北見市出身の憲法学者=()久田栄正氏の教え子で旭川在住の方が、613日当事務室に来られ、久田氏の著作類14冊を寄贈してくださいました。当市図書館にもない図書類で久田氏の業績を知る上で大変参考になります。感謝。()

 

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