ヌプンケシ244号

 〒090-0024  北見市北4条東4丁目 北見市役所第1分庁舎 市史編さん主幹 TEL0157-25-1039 


市史編さんニュース NO.244

タイトル ヌプンケシ

平成24年8月1日発行


◎北見の米づくりと三輪光儀(6)

◇大灌漑溝工事は一冬か、二冬か?

 ところで、これまでも三輪大隊長の野付牛屯田での業績に一つとして大灌漑溝工事があげられているのですが、今回の調査でその工事期間について二説あることに気づきました。

 昭和56(1981)12月発行の『北見市史』上巻には、明治「三十四年(一九〇一)十一月下旬から翌年の一月下旬迄、年末と年始の期間を除いて連日三ヶ中隊全員出動することにして実施に踏み切った。水路は現留辺蘂町宮下の無加川の一角から、三中隊、二中隊を経て端野一中隊一区で常呂川に注ぐ全長八里(三十二キロメートル)の大灌漑溝である。真冬で厳寒期のことであり地面が凍結していて掘削は容易でなく、時には吹雪と戦っての作業等幾多の艱難を越えて完成に到った。工事は約六百名の大集団の威力を発揮して二ヶ月余の短期間で竣工した。」とあります。

大灌漑溝の概略図 平成10(1998)10月発行の『新端野町史』では「潅漑溝は、水田造成の第一要件である。本州出身の屯田兵たちは、米食に対し執着心を燃やし、米作に果敢に挑んだ。明治三四年(一九〇一)、時の屯田兵第四大隊長三輪光儀の発議により、屯田兵たちは早くも灌漑溝工事に着手した。現在の北見、留辺蘂の境から端野二区東二〇号線に至る延長八里(約三二キロメートル)に及ぶ大潅漑溝は、およそ六〇〇人の兵員によって二冬にわたり開削工事が進められ、翌三五年(一九〇二)一二月に完成した。」と、二冬かかったとしています。

 このどちらが正確な記述なのでしょうか、他の資料で確認してみましょう。

◇野付牛屯田としては、二冬かけて完成が正確

 大正5年(1916)6月発行の『北見國中野付牛兵村屯田記念帖』には「明治三十四年度及同三十五年度の両冬期間を期し全村三個中隊六百の兵員相共同して水源地をポン湯に発し端野二区に到って常呂川に灌ぐ幹線延長八里に亘る大工事に着手したり」とあり、大正15(1926)12月発行『野付牛町誌』にも「三十四、三十五年の両冬を期し」と同様の記述があります。また、茶木与三氏が記した「屯田兵公務日記」にも、明治3435両年の農閑期に工事に参加した事が記されています。

 右の不鮮明な地図は、大灌漑溝の概略図です。

 しかし、昭和2年(1927)12月発行『相内村誌』には「大工事トシテ特記スベキモノヲ灌漑溝ノ掘削トナス。此工事ヤ東ハ端野ノ東端ヨリ西ハ留辺蘂ノ東端ニ及ヒ延長実ニ八里ヲ越ユ大隊長自カラ之ヲ董督シ中隊長其中隊ニ属スル全兵員ヲ指揮シテ方面ノ事ヲ担当シ隊付士官現場ニ立ツテ兵員ヲ鼓舞シ寝食ヲ忘レテ狂奔激励ス。()我ガ相内中隊ノ功程四里ニ達シ蜿々タル一大長蛇ノ如シ着手明治三十五年九月竣工同年十二月下旬日子ヲ費スコト実ニ百二十日ニ及ベリ」とあるので、明治35年一冬ではないか、との反論もあるかと思いますが、これは第3中隊(相内地区)の四里に限っての記述です。

 同様に前掲『北見市史』上巻の記述は、第2中隊での工事期間、明治3411月下旬~同35年1月下旬を、第1中隊から第3中隊までの全工事期間と錯誤して記載したものでしょう。

 結論として、「野付牛屯田」全体で見るならば、『新端野町史』のとおり明治3435年の二冬かけて大灌漑溝を完成させた、とするのが正確な記述です。

◇灌漑溝工事に従事した屯田兵の声

 昭和41(1966)12月発行の『開拓夜話』には「灌漑溝を掘る」という表題で、端野屯田の奥田乙松翁からの聞取りを基にしたお話があります。それを読むと、厳寒の凍てつく大地にスコップと唐鍬で立ち向った困難な工事の最初の年に、屯田兵達の中には灌漑溝の必要性に疑問を感じる人達もいて、代表者が中隊長に工事の一時中止を申し入れたことが記されています。後日、これらの人達は中隊長に個別に呼び出され、「おまえ達は軍の命令に意見をさしはむのみならず、皆が、腹を合わせて罷業(ひぎょう、ストライキのこと‐引用者)までもしかねない様子は軍法会議にも廻わされることがらだ。もっと上官の命令を素直に受けとり服従すべきである。」と処罰はされなかったものの強く叱責されたそうです。湧別屯田でも、同様の動きがあったもようです。

 昭和43(1968)5月にNHK札幌中央放送局が作成した『屯田兵~家族のみた制度と生活~』で、奥田乙松翁は当時の様子を次のように語っています。

 

灌漑溝の幹線は屯田兵時代に通しました。それは現在全部使っていませんが、はじめから水田をつくるために相内の一区から水をひくことにしまして、大隊長の命令で、寒中に掘割(掘削?―引用者)をしたのです。その頃はまだ防寒設備もありませんし、ツマゴをつくっても、毛布の古いのを五寸巾くらいにしたのを足にまいて、ツマゴをはいてやりました。その頃は兵村のあっちこっちで試作しまして、大体米ができるという見当がつきましたのでやったので、米も食いたいし、ツマゴをつくる藁もほしいので作りました。その頃はよほど力のある人でないと、俵米買いませんでした。俵米買うと俵を解いて履物ができましたからね。一俵の俵といても一足か二足よりできませんでした。

  

 同書では、野付牛屯田の子弟である寺前秀一氏も「米は藁がほしいので、明治40年頃青森県からモミをとりよせ、風呂場のうらで苗を育ててやったのがはじまりでした。」と語っていますから、とにかく米が稔らなくても藁だけでもほしかったのでしょう。

◇その後の大灌漑溝は…

 三輪大隊長の発案だっただけでなく、屯田兵自身が米を食いたい、生活物資の材料になる藁がほしいという切実な願いで、厳しい冬の灌漑溝開削工事に二冬かけて完成させた大灌漑溝でしたが、命令した三輪大隊長は工事完成を見ずに明治35(1902)2月に旭川に転出し、しかもその後は天候不順続きで肝心の米づくりが成功せず、明治36年の北見屯田兵の現役解除、翌年の日露戦争の勃発等によって、結局利用されずに放置されてしまいました。

 明治20(1887)代から大正に至る期間は気象史上いわゆる「明治の低温期」とよばれて、米づくりに適しない過酷な自然条件であったようです。結局、北見地方は金になる国際商品=ハッカの栽培が先行し、民間での米作りは大正に入るまで停滞しました。それでも明治40(1907) 北海道庁地方農事試験場北見分場が設置され、米の品種改良が続けられました。()

 

《分庁舎だより》☆編集委員会の発足等で、欠員が生じた市史編さん委員4名の委嘱状交付式が7月19日行われました。新委員は北見自治区から樋口和夫様・栗原ひとみ様・福地章子様、常呂自治区から藤橋和雄様で、任期は平成25年8月12日迄です。よろしくお願いいたします。

 

NO.245へ

よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館