ヌプンケシ245号

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市史編さんニュース NO.245

タイトル ヌプンケシ

平成24年8月15日発行


◎井上伝蔵のお墓はどこにある?

 先日、市民の方から「北見市内に井上伝蔵のお墓はあるのか?」とお問合せを頂きました。これまでも同じ質問がありました。お盆にあわせて、今号はその回答をレポートしておきます。

『井上伝蔵』写真◇井上伝蔵のこと

 井上伝蔵に関しては、平成15(2003)に秩父事件120周年記念映画『草の乱』の監督=神山征二郎氏がロケハンに来北されたのを機会に当紙46号~53号で『秩父事件と井上伝蔵』と題して特集を組み、平成16年5月にはそれらをまとめて中間報告の『野付牛における井上伝蔵』を発行しました。映画は平成16年9月に公開、北見で11月6日上映会が開催されました。またその後には秩父事件研究家引間春一氏からご提供のあった資料を『井上伝蔵の三男、郁夫のスケッチ・ブック』と題して83号で紹介しました。

 詳しくは以上のニュースなどを見てもらうことにして、初めて名前を聞いた方のために講談社『日本人名大辞典』で井上伝蔵の略歴をおさらいしましょう。

 「【井上伝蔵】(18541918)明治時代の自由民権運動家。嘉永7年6月26日武蔵秩父郡(埼玉県)の旧家に生まれ、絹布の仲買を業とした。明治16年ごろ自由党にはいり、大井憲太郎の知遇を得、秩父自由党の幹事となる。田代栄助を総理にむかえ、秩父困民党の蜂起に際して会計長をつとめた。欠席裁判で死刑判決をうけたが、伊藤房次郎と名をかえ北海道に潜伏し結婚、大正7年6月2365歳で死去する直前に過去をあかした。」

 この「秩父困民党の蜂起」は一般的には「秩父事件」と言われ、これまでにたくさんの研究書が出版されています。これも山川出版『日本史広辞典』で概略をみておきましょう。

 「【秩父事件】1884(明治17)11月に埼玉県秩父地方でおきた中農自由党員・貧窮農民(困民)による本格的かつ組織的な武装蜂起事件。養蚕・生糸生産を主産業とする秩父地方は松方デフレの影響を最も強くうけた地域で、借金農民の負債返済方法の緩和運動は84年に入ると質的にも量的にも拡大した。当初は債権者や郡役所への請願という合法的な運動が続けられたが、いずれも拒否され、10月になると蜂起への準備が進められた。決行予定日は11月1日であったが、1031日一部農民が決起、警官隊と衝突し、事実上戦闘が開始された。困民軍は一時全秩父を支配下におくほどの勢いを示したが、警察の態勢の確立、軍隊・憲兵の出動、困民軍指導部の動揺と混乱などにより、月半ばには壊滅した。負債の年賦返済・諸雑税廃止といった生活次元の要求を基底にしつつ、村・県・内務省への要求を掲げたこと、きびしい軍律のもとに行動したことなどに特色がある。」

◇亡くなった場所は野付牛町(現・北見市)

 なお、先に引用した人名大辞典では「死去する直前に過去をあかした」ことになっていますが、昭和52(1977)8月発行『秩父困民党に生きた人びと』にある三女の佐藤セツさんの証言では、腎臓病の治療にいった札幌の病室で死期を悟った伝蔵が三日間にわたり妻・ミキと長男・洋に実名と秩父事件の真相を告白したそうです。

 札幌から野付牛に帰り、大正7(1918)6月23日に伝蔵が亡くなった場所は、当市の北2条西1丁目7番地(現在ビルが建設中の旧丸正デパート跡の角)でした。

 葬儀が行われた月日については、明確に提示された資料はありません。ただし、大正年7月3日付『釧路新聞』に「二十五日仮葬を営みたるが追つて遺骨は故郷に持ち帰へり◇改めて本葬を行ふ都合なり」とあります。

伝蔵の仮葬儀写真 その6月25日の仮葬儀は北3条東5丁目にあった旧聖徳寺のところで行われました。左はその時の写真です。残念なことに当該写真の原物は、研究家が所有していた米田家から持出してそのまま所在不明だそうです。このように研究家の中には貴重な資料を返却しない不心得者がいて、研究の障害となり、筆者も何度か苦々しい思いをさせられました。

 なお、伝蔵の死は電報で秩父に知らされ、弟=だいだいだい(だいさく)とその次男義久が野付牛に到着するまで火葬はしませんでした。そこらを、セツさんの証言で確認してみましょう。

 「昔は、寝棺ではありません、座棺でございました。葬式は先に済ませましたが、焼かないで焼場に頼みまして、番人を付けまして、母が何度も通いましてお線香をあげまして、そして三日ぐらい焼かないで置いたのです。そして、“一目でも会ってくれ„とあ作さんに母が申しました。もう六月になりますと北海道でも腐敗してきて家に置けないんです。葬儀は出したんですけど、火葬はしませんでね、そして、ずっとだい作さんを待っていたわけでございます。それから、母がお棺のフタを取りましたら、みんながワッってと言うから、私ものぞいてみました。みんなは、“オー眼が開いた、眼が開いた„と叫んでるんですね。スーッと眼が開いたそうなんですねえ。母がまた閉めますと、もうみんな泣いたんですよ。腐りかけてるのに待ってたんでしょうねえ、やはりねえ」

◇お墓は秩父市吉田町にある。

 文献によっては「聖徳寺に埋葬された」、もしくは「秩父に分骨された」との記述も散見されるので、それで当市に伝蔵のお墓があると思われるようです。

 しかし、事実はだい作らと共に洋が遺骨をもって秩父を訪ね、本葬に出席、納骨しています。

お墓 万が一に分骨していたにしても、大正12(1923)頃には伝蔵の遺族は全員当地から転出していますから、当市にお墓を置く必要性は全くありませんでした。

 井上伝蔵のお墓は、秩父市吉田町にあります。筆者も平成21(2009)11月に現地に行って見てきました。東京の池袋から、西部池袋線に乗って車窓から見た風景は山間を行くといった感じで、昔はもっと山深い、交通が不便な地域だったことが想像されました。西部秩父駅からは本数の少ないバスに揺られて吉田町へ行き、夕間暮れ、井上耕地といわれる地区を散策、説明板の他には何もない、さびれた井上伝蔵の屋敷跡を見て、向かい側の沢にかかった短い橋を渡って農家の横を通り過ぎ、写真どおりの畑の脇にある井上伝蔵のお墓につきました。しばし、絹で賑わった明治の頃を偲び、合掌して帰ってきました。(完)

 

《分庁舎だより》☆お盆です。今年の夏も天候の変動が激しく、体が気温に対応できず、しかもオリンピックでつい夜更かしして、体調をくずした方も多かったようです。しかし、お盆が過ぎるとすぐに秋がくるのが北海道です。筆者は少し落ち着いて、本を読むことにします。()

 

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