ヌプンケシ246号

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市史編さんニュース NO.246

タイトル ヌプンケシ

平成24年9月1日発行


◎「農民の父」安孫子孝次のこと

 特集『北見の米づくりと三輪光儀』に関連して、初代北海道庁立上川農事試験場北見分場長である安孫子孝次(あびこ たかつぐ)の情報も出てきましたので、その結果をレポートします。

◇北海道庁地方農事試験場北見分場創設から

 北海道での農業試験は開拓使が明治3年(1870)に函館の七重開墾場、明治4年に札幌官園において各種栽培試験を行ったのが最初だそうです。

北海道庁地方農事試験場北見分場 明治19(1886)に北海道庁がおかれ、明治22(1889)に上川農事試作場、明28(1895)に十勝農事試作場が、そして明治34(1901)にその後の本道農業試験の中核となる北海道農事試験場が設置されました。

 前田駒次をはじめとする野付牛村民の熱心な陳情をうけて明治40(1907)地方費をもって北海道庁地方農事試験場北見分場が野付牛村字オンネメーム(現在の常盤町国道39号沿い)に設置されました。

 その用地19.8haは中野付牛屯田兵村が公有地となった屯田歩兵第四大隊練兵場跡と付近の耕地を寄付したものです。(上の写真は北海道大学附属図書館所蔵で、大正初期頃の北海道農事試験場北見支場を撮影したものです。)

 同年この北見分場の現地責任者に十勝分場在勤の柴田萬之助が異動配置され、高野貞良と共に、試験施設、圃場を整備し、1年後には栽培試験ができる状態にしました。

 なお、『北見農業試験場70年のあゆみ』では柴田が初代場長との記述がありますが、明治40101日現在の『北海道職員録』では、柴田の身分は「地方農事試験場技手」となっています。このことは、現・北見農業試験場の方とも確認しました。

 同分場は明治41(1908)北海道庁立上川農事試験場北見分場と改称されました。試験事業を実施できる段階になったのに、当時の札幌からみれば野付牛は陸の孤島といわれた遠隔地でしたので場長のなり手がなく、明治41年7月4日に東北帝国大学農科大学(明治40年札幌農学校から改称)を卒業したての弱冠25歳の安孫子孝次に白羽の矢があたり、北見分場長に発令されました。

◇父・安孫子倫彦(ともひこ)

安孫子倫彦の肖像画 安孫子孝次の父・倫彦(左の肖像画の人)は安政4年(1857)1124日会津に生れました。倫彦の実兄は戊辰戦争で戦死、実父も自刃、賊軍の悲哀を味わって、明治8年(1875)に琴似に入地し、明治10(1877) の西南戦争に出動して戦い、頭部に弾傷をおいました。明治19(1886)には新設された和田屯田に新兵教育に派遣されました。三輪光儀中尉(当時)が講師をした札幌農学校兵学科別科第二期生として、選抜されて明治24(1891)5月に入学、翌年3月に卒業、10月には陸軍屯田歩兵少尉となりました。明治26年から同27年に日清戦争で出征するまで琴似発寒両村戸長の職にありました。復員後明治28(1895)から北海道農事試験場の農業技手となり、途中、日露戦争で応召したほかは、大正6年(1917)まで勤務。その後は自営農業に励み、昭和11(1936)10月8日、昭和天皇地方行幸に際し、農事試験場長となった息子孝次が北海道農業事情を、倫彦は屯田兵の事跡をそれぞれ奏上する機会を与えられました。昭和17(1942)2月5日、倫彦永眠、86歳でした。

◇安孫子孝次

安孫子孝次の写真 孝次は、倫彦の長男として明治15(1882)1216日に生まれて、子どもの頃から農作業を手伝い、冷害や病虫害に苦しむ親達の姿をみて育ち、これらを克服する農学を志し、農耕を助けることを条件に親の了解を得て進学、札幌農学校予修科を経て農科大学を卒業しました。彼が分場長に選ばれたのは、学理に片寄らず、農業の実際にも明るかったからでした。(右はその本人の写真)

 彼は北見分場に着任すると北見地方の適作物、適品種を早く定めようと各作物の試験栽培を始め、水稲の試験にも取り組み、再々訪ねてくる前田駒次とも稲作の栽培技術などについて意見を交わしました。

 また、耐寒性の強い品種のリンゴを植樹し、北見地方の果樹園芸の成立に貢献したそうです。しかし、当地での孝次の勤務は1年半でおわり、明治43(1910)渡島支場長で異動しました。

 北見、渡島で「本道農業の現状と試験研究の課題をしっかりとつかんだ安孫子は大正四年(一九一五)北海道農事試験場本場の種芸部主任に栄転、技師たちを率いて各作物の品種改良、栽培法の向上、研究などに専念する。まず手がけたのが水稲の改良。ユメは低温に負けず病虫害に強く、うまくて多収のコメ。琴似屯田兵村で小さいころから本道稲作のイバラの道を膚で感じてきた安孫子にとって、優れた耐寒品種の完成がライフワークであった。/安孫子が着目したのは人工交配による育種だった。優れた在来品種を選び出して数多い組み合わせを作って交配、生育状況や収穫後のモミの特質などを細かに観察する。(中略)この地道な努力が実って画期的な新品種が誕生する。『坊主』と『魁(さきがけ)』からできた早生で多収良質の冷害に強い『走坊主』であった。大正四年に着手してから歳月をかけ、十年目の大正十三年(一九二四)に完成したのである。/この新品種は名称の通り道内各地を走り回り、爆発的に伸びる。稲作の限界線をどんどん北上させたのは『走坊主』に負うところが大きい。安孫子はまた、本州の『中生愛国』と本道の『坊主六号』の交配から中生の優良種『富国』を作り出す。さらに温冷床による苗の育成栽培法や稲熱病防除の試験、研究などにも取り組み、今日の寒地稲作技術の基礎を固めた。」(以上、昭和511976年5月発行『人脈北海道/農業編』より引用)

 昭和2年(1927)から昭和15(1940)の退職までの13年間北海道農事試験場長を勤め、米・麦・馬鈴薯・ビートなどの品種改良に大きな業績を残すと共に、試験場に農業練習生制度を設け、農家の子弟を集めて後継者を育成し、自らも努めて農村を歩き、「農民の父」と敬慕されました。昭和16(1941)には北海道農会会長、昭和17年には衆議院議員に当選、翌18年には各種組織が統制合同した北海道農業会会長と要職にありました。また、八重夫人と共に札幌琴似教会の創立にもかかわる熱心なクリスチャンでもありました。戦後一時公職追放後、北海道教育委員、北星学園長を歴任。昭和48(1973)3月26日、90歳で逝去されました。()

 

《分庁舎だより》☆三輪光儀の教えを受けた安孫子倫彦、その息子孝次が初代分場長として赴任してくるなど、当地との縁を感じました。昭和25(1950)12月『北見新聞』掲載「池田七郎翁回顧談」にも「農民に兄のように慕われた」孝次の謙虚な人柄を示す逸話があります。()

 

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