ヌプンケシ250号

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市史編さんニュース NO.250

タイトル ヌプンケシ

平成24年11月1日発行


相内の屯田兵屋写真◎屯田兵屋と暖房設備

 「屯田兵屋」というと、当市の北網圏文化センター内に展示されている、柾屋根、板張りの壁、暖房はストーブでなく、大きな丸太が燃やせる囲炉裏のみ、見るからに寒そうな隙間だらけの建物が思い浮かぶと思います。(右の写真は、昭和32(1957)発行『北見市史』に掲載された相内の屯田兵屋です。)

 事実、当時の記録や聞取り証言を見ると、冬になると屋根の煙出し部分から雪や冷気が吹き込んで氷柱が下がり、室内は布団の襟が凍るほど寒かったようです。今回は屯田兵屋と暖房設備について、少々ふれてみたいと思います。

☆当初はカッヘル(ストーブの一種)を設備予定

 昭和46(1971)3月発行『新北海道史』第三巻によれば、明治7年(1874)4月から琴似兵村の建設が着手され、当初の兵屋設計は開拓使下級役人の官舎に準じた長屋が基本で、それでも各戸に浴室とレンガ造りのカッヘル、煙突が付けられることになっていました。また、各戸ごとに厩(うまや)付物置があり、各長屋ごとに屋根付き井戸が用意される予定であったそうです。おかしなことに、屯田兵なのに農業に必要な土間・納屋は考えられていなかったそうです。

琴似型平面図 この兵屋設計については、東京の開拓使出張所から異論があがり、工事中止命令がでたそうで、北海道開拓の責任者の一人であったケプロンは伝統的な和風住宅ではなく、一戸建てで防寒構造の洋風建築の家屋を考えていたそうです。

 「中止命令に対して現地の札幌では作業の続行を主張し、けっきょく琴似に一戸建て二〇〇戸の兵屋を建築した。この兵屋は完成するまでにその後も再三の変更をみたが、その最大の理由は予算であった。明治五年の札幌会議以後財政の建て直しを図って、六年度には新規の事業を極度に押えていた開拓使としては、屯田兵に関する経費はその定額の中で納めねばならなかったのである。それはカッヘルはもちろん、厩すら中止し、すでに切組に着手したものさえ設計の変更によって縮小し、出費を押えるというきびしさであった。

 こうして十一月の末、一応完成した琴似の屯田兵屋は、桁間五間、梁間三間半、十七坪五合のものであり、この土壁つきの兵屋は当時の家屋としては決して劣悪なものではなかった。一般の入植者の住居と比べると問題なく、また札幌市中の民家と比較しても水準を抜くものであった。そしてこの琴似型屯田兵屋は、翌年の山鼻・発寒はもちろん、江別・篠津の様式実験家屋を除く屯田兵屋の母型として(時代により若干の設計変更はあるが)定着したのである。」

 予算を削減する関係で、カッヘルの設置が見送られ、暖房を考えない従来の本州住宅なみの兵屋になったというのは残念です。もし、このカッヘルだけでも兵屋に設備されていれば、その後の北海道での暖房設備の発達は相当変ったことでしょう。

☆アメリカ式、ロシア式の兵屋

ロシア式の兵屋写真 「しかしこの兵屋がケプロン等外国顧問団や開拓使内部から種々の批判を受けたこともあって、開拓使は十一年、江別に札幌農学校のアメリカ人教師によって指導されたアメリカ式構造の兵屋一〇戸を、十二年にはロシアの大工を招いて篠津にロシア式コサック風丸太校倉造りの兵屋二〇戸を建築した。これらは、中央にロシア型暖炉を設けた田の字型の設計で窓はガラス入りであった。だがせっかくの兵屋改良の試みも結果的に不評であった。それは、間取りが洋風で生活となじまないこと、構造がむずかしく量産ができないこと、建築費がアメリカ式で琴似型の約二倍、コッサク式で約四倍になることなどのためであった。」

 アメリカ式の兵屋の写真はありませんが、ロシア式の兵屋は左のとおりです。近年ログハウス建設がブームになったことがありましたが、すでに明治12(1879)に試作していた時期があったのです。

 同じく『新北海道史』第三巻によれば、「十一年八月ロシア領ウラジオストックにおもむいた黒田長官は、同地の防寒家屋の特徴を研究し、北海道の気候条件に適した家屋を建築する場合の模範とするため、三人の職工を雇って帰国した。そして次のようなロシア式家屋を建築した。

 札幌本庁管下農民及函館、根室在住ノ者ヲシテ其築造方法ヲ伝習セシム。其方法木材ヲ畳ミ四壁ヲ作リ、穿ツニ玻璃窓(ガラス窓)ヲ以テシ、其外観甚タ華美ナラザレドモ、専ラ防寒ニ適スルヲ以テ、先ヅ官舎二棟、小学校一棟ヲ札幌ニ、屯田兵弐拾棟ヲ石狩郡篠津村ニ、生徒舎一棟ヲ勇払郡美々ニ、官舎二棟ヲ札幌郡厚別ニ建築セシム。        (旧工業課 営繕報告書)

 

  このロシア式建築は雑木丸太積みの校倉造りで、戸・窓などをできるだけ小さくして、外気を遮断し、ガラス窓を用い、内部にペチカ式の大形のストーブを取り付けたものであった。しかし丸太にはまっすぐなものがないので、わざわざ角材を削って使わねばならず、丸太を組み合せたものには、すきまに苔を詰めると乾燥してぼろぼろ落ちるし、ストーブも工業局で作ったが、思うようには製造できず、不評をかって失敗に終わった。」とあります。

 確かに予算と手間のかかるロシア式兵屋は開拓使の役人たちには不評だったかもしれませんが、住んでいた屯田兵家族にも不評だったのでしょうか。その点に関して筆者は疑問に思っています。たとえば、NHK札幌中央放送局が昭和43(1968)5月発行した『屯田兵~家族のみた制度と生活~』で、江別屯田の二世である長沢武翁が次のように証言しています。

 「丸太小屋が20戸あって、そのうち19戸より入りませんでした。…丸木の長さは皆四間の通しものですからね。丸太と丸太の合せ目には溝をほりまして組み合せ、中に木の苔をはさんだようです。そして天井には二寸位土を盛ったんだそうです。天井の板も一寸二分位の厚い板でした。だからその頃石狩川が三尺も厚い氷が張ったといいますが、家の中では全然凍らなかったそうです。暖炉は石で組んだペチカだったそうです。煙突は煉瓦でした。家の真中にありました。やはり広い土間がありましてね。四間四方の家だったんです。…私の家はいたんでないので残してほしいといったそうですが、そうはいかんといって皆一緒に建改えたそうです。」

 防寒設備の兵屋が取り壊され、技術が引継がれなかったのは大損失だったと考えます。(完)

 

《分庁舎だより》☆連載した戸長役場の記事について色々と反響がありました。もともとは昭和32(1957)発行の写真説明の間違いが発端で、これを早期に訂正せずに放置してきた結果でした。いかに注意しても間違いはありますが、速やかに正すのが研究者としての倫理です。() 

 

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