ヌプンケシ251号

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市史編さんニュース NO.251

タイトル ヌプンケシ

平成24年11月15日発行


◎大町桂月の北海道旅行(1)

 本年9月19日付『北海道新聞』に「原生花園散策し一句」との見出しで次の記事があります。

 「酒場俳人として知られる吉田類さんを招いた吟行と句会『ワッカこころの歳時記 特別編』が17日、ワッカ原生花園()で開かれ、北見や網走など20人が原生花園を散策しながら俳句をひねった。/常呂町観光協会の主催で、昨年秋に続き2回目。吉田さんが、原生花園一帯を『竜宮街道』と名付けた明治・大正期の文人、大町桂月と同じ高知出身であることから招待された。/()/同協会は、竜宮街道の命名100年となる2021年まで句会を続けたいとしている。」

 ここに紹介されている吉田類氏とは、ご存知の方もおいででしょうが、BSテレビ『吉田類の居酒屋放浪記』で全国各地の人気飲み屋を紹介している人物で、同氏が明治・大正期の文人、大町桂月と同郷の高知県出身ということで、常呂町観光協会に招かれたとのことです。

 そこで、今回はワッカ原生花園「竜宮街道」の名付け親、大町桂月のことをレポートします。

◇大町桂月の略歴

 それでは最初に、桂月の略歴を吉川弘文館『日本近現代人名辞典』で見ることにしましょう。

 おおまちけいげつ 大町桂月 一八六九~一九二五 明治・大正時代の詩人、評論家、随筆家。本名芳衛(よしえ)。明治二年(一八六九)正月二十四日、土佐高知に高知藩士大町通の三男として生まれる。同十三年に上京し、第一高等中学・帝国大学文科大学国文科に学び、二十九年に卒業。在学中、二十八年の『帝国文学』創刊にあたり編集委員の一人となり、文芸評論や新体詩を同誌上に掲載、文名が上がった。卒業後一時、地方で教鞭を取る。三十三年に帰京、博文館に入社し、雑誌『文芸倶楽部』『太陽』『中学世界』などに評論・随筆を発表していたが三十八年ころ退社。四十二年から大正七年(一九一八)ごろまで冨山房の雑誌『学生』を主宰した。また、生来旅行を好み、明治三十年ごろから紀行文を書き、晩年は中国大陸にも渡り紀行文家として第一人者の地位にあった。大正十四年、本籍を青森県上北郡法奥沢村蔦(十和田湖町)に移したが、同年六月十日ここに没。五十七歳。遺骨は蔦と東京雑司ヶ谷に分骨された。主著に『文学小観』(明治三十三年刊)、『筆のしづく』三巻(同三十六―四十一年刊)、『日本文章史』(四十年刊)、『日本の山水』(大正四年刊)、『桂月全集』全十二巻別巻一巻がある。

『大町桂月』写真 この略歴には書いてありませんが、桂月は土佐人らしく大酒飲みで、最終的には酒で胃潰瘍を悪化させて死んでしまいました。高知には彼の名前にちなんだ『桂月』という日本酒があり、飲兵衛の筆者も高知から取寄せて飲んだことがありますが、飲みやすくおいしいお酒です。(右は桂月の顔写真)

◇与謝野晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」を非難

 また、当ニュース71号「日露戦争100年(5)」で紹介したとおり、日露戦争の最中だった明治37(1904)、与謝野晶子が『明星』に発表した詩「君死にたまふこと勿れ」を、皇室中心主義者であった桂月は雑誌『太陽』で「国家観念を蔑視したる危険なる思想の発露なり」として、晶子を「乱臣也、賊子也、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と非難、攻撃しました。これに対して晶子は毅然と「少女と申す者誰も戦争ぎらひに候」と返し、夫である鉄幹も明星派の論客平出修と共に桂月の居宅に出かけて対決し、後日その内容を「『詩歌の骨髄』とは何ぞや」と題して『明星』に発表し、桂月が非難した論理の矛盾点などをつき、粗雑な論を展開する者には文芸批評を続ける資格はないと断じたそうです。

 桂月による晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」への論難、言動は、「ウルトラナショナリスト桂月」のイメージを以後すっかり定着させたました。

◇『大町桂月の大雪山』から

 しかし、戦前には大町桂月が体制的に評価され、青年達に支持されていたことは、平成22(2010)発行、清水敏一著『大町桂月の大雪山』に次のように紹介されています。

 大町桂月(一八六九-一九二五)といっても今や半ば忘れられた過去の人物といえるかも知れない。けれども当時の桂月は全国的に広く知られる文学者であった。忠君愛国、国粋的な思想、国士、壮士の気概、硬派の文士、酒仙、気風のよさ、義理人情に厚く風采を飾らない態度と相俟って絶大な人気を誇った。ことに男性と青少年に熱狂的に迎えられたのであった。教育勅語そのものの彼の思想と文は教科書にも採り入れられて、その名は全国にあまねく知られるようになった。いうならば当時の国民的文士であったのである。

 けれども敗戦後、彼の思想は受け入れられなくなると共に、教科書からも消えてしまった。昨今では彼の故郷土佐でも桂月の名を知らない人も多くなってしまったと聞く。土佐といえば今では何といっても坂本龍馬、圧倒的な知名度と人気をもって脚光を浴び続けている。とはいえ桂月は今でも根強い信奉者は多いようだ。それを証明するかのように彼の文学碑は全国に建っている。石川啄木を始め北原白秋、野口雨情らには及ばないとしても、全国に七十数基あるというから相当な数である。それも敗戦後に建てられたものが多い。なかでも晩年の彼にゆかりの青森県には四十基もあるというから、半数以上を占めていることになる。しかも近年になって建立されたものが大半なのである。出身地高知には七基と意外に少ないが、早くに生地土佐を離れているせいかも知れない。

 北海道にも七基ある。一九二一(大正十)年、五カ月にわたって道央から道北、道東を遊歴しているが、彼の足跡を偲んで各地に建てられた。彼の一大登山となった大雪山では出発点である層雲峡と終着点天人峡温泉に、彼の一文を刻んだ碑が建てられている。(後略)

 

『大町桂月の大雪山』表紙  この『大町桂月の大雪山』は、桂月の大雪山登山の行程を検証し、今まで明らかでなかった同行者達の功績を顕彰した労作です。

 同書によれば、明治中期、多くの文人が冒険としての自然探訪の旅に出ることが流行し、「当時に登山や旅を楽しむことは、学者や芸術家、名家の子弟などの知識階級、財力のある資産階級の人たちのものであった」そうで、著者清水氏の見るところでは、登山家の域に達したのは桂月と俳人の河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の二人だったそうです。その桂月は明治22(1889)20歳の時に登った妙義山から、亡くなる大正14(1925)の八甲田山八幡岳まで、全国各地の名山を訪れ、紀行文を遺しました。

 桂月の大雪山登山等の経緯については、次号で紹介いたします。()

 

《分庁舎だより》☆1018日、伊藤公平氏が健康上の理由で市史編集委員長と委員を辞任されました。現在、編集委員会では「目次大綱」をまとめる段階にありますから、伊藤氏には本当に残念な思いをされているのではないでしょうか。まずはお体を大切に療養してください。()

 

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