ヌプンケシ252号

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市史編さんニュース NO.252

タイトル ヌプンケシ

平成24年12月1日発行


◎大町桂月の北海道旅行(2)

◇高橋正著『評伝大町桂月』

『評伝 大町桂月』表紙 桂月は戦後はなはだ評判が悪いためか、その伝記類を探してみましたが、高知市民図書館が平成3年(1991)3月特別出版した、高橋正著『評伝大町桂月』しかありませんでした。しかも、インターネットの道内横断検索によると、この本は北海道立図書館と当市常呂図書館の2館しか所蔵していませんでした。

 著者の高橋氏は教員だった方で、昭和43(1968)法政大学日本文学科に内地留学した際に指導教官から大町桂月の研究を勧められ、以来二十有余年全国から膨大な資料を収集し、それらを基に研鑽を積まれ、その成果を『評伝大町桂月』に纏め、高知県出版文化賞、平尾学術奨励賞を受賞されました。

◇筆行脚で北海道へ

 さて、この本によると桂月が安定した生活をしていたのは当時の一流出版社=博文館に勤務していた頃くらいで、そこも二日酔いで出社しないなどの失敗を繰返し退社に追い込まれ、筆一本で生活せざるを得なくなり、しかも金が入れば酒に費消する有様であったそうです。

 大正9年(1920)、桂月はかつて教鞭をとった学校のある島根県を一か月旅行して、その費用を各地で開催された揮毫(きごう)会での揮毫料で賄いました。「これに味を占め、以後桂月の晩年は筆行脚の日々が続くことになる。」つまり、旅行の先々で揮毫会と称して希望者を集めて、何か詩文、詞の類を書き与えて礼金を貰い、その金を旅費や酒代などに充てたのです。

 「二十年ぶりの雲州路、二度目の土佐路の各旅費を揮毫料で賄ってすっかり味を占めた桂月は、同様手段で北海道方面の筆行脚を思い立った。道内各地の書会の発起人は、いずれも地元の新聞社、代議士、銀行頭取、鉄道局長、高等学校長、支庁長などの有力者であった。/桂月は元来、字は下手な方であったが、『中央公論』の編集者の瀧田樗蔭の勧めもあって書に親しむようになり、次第に腕を上げ、揮毫家としてなんとか格好が付く程度になった。揮毫料は半切六円及至十円位であった。当時の一円は今日の数千円から一万円位に相当するので貧乏文士桂月にとってはかなりの実入りと言うべきであろう。/大正十年七月十一日夜、函館に到着以来、十一月六日に離道するまで、丸四か月間、桂月は北海道各地を書会や講演会を兼ねながら巡遊、北海道独特のスケールの大きい太古の自然美をたっぷりと味わった。」

 道内に桂月の書が多数存在しているは、各地で揮毫会が開催されたためでした。

◇大雪山踏破

 桂月の大雪山踏破について、『評伝大町桂月』では次のように書かれています。

 

 

 その圧巻は、北海道の屋根と謂われる大雪山諸連峰の踏破であろう。「富士山に登つて、山嶽の高さを語れ。大雪山に登つて、山嶽の大さを語れ」と桂月がいみじくも形容した道内随一の高山、標高二千二百九十メートルの大雪山の登頂は、旭川を起点に通常四日のコースである。徹底主義の桂月一行は、通常のルートを故意に避けて、前人未踏の難コースである凌雲沢から悪戦苦闘して登攀、主峰旭嶽を初め、北鎮、白雲、凌雲の諸嶽を次々と征服、初日に探勝した層雲峡も含めて、大雪山の広大・複雑な山容の全域をほぼ極め尽くした。八月十九日に旭川を出発、同月二十六日の下山、通常の倍の日程を要したことになる。予定の日を過ぎても下山して来ないので、桂月は熊に喰われ、遭難といった誤報が、東京あるいは高知に飛び交うといった椿事もあった。

 ご覧のように『評伝大町桂月』では、桂月は最初から「通常のルートを避けて、前人未踏の難コース」を採ったとありますが、はたして実際はどうだったのでしょうか。

◇『大町桂月の大雪山』では…

 その点に関して、前号で紹介した『大町桂月の大雪山』では次のように述べられています。

 桂月の大雪山登山については桂月自身の「層雲峡より…」(紀行文『層雲峡から大雪山へ』の略表記―引用者)(以下「登山記」という)のほか、桂月に同行した塩谷忠、水姓(みずうじ)吉蔵、田所碧洋(へきよう)(貢)の遺した文がある。これらの文献資料を参照しながら桂月の登山を再現してみたい。

  桂月はなぜ層雲峡から入山したかという経緯については触れていないので、まずはそのあたりから話を始めよう。桂月は当初から登山道のない層雲峡からの登山は考えていなかった。それも当然のことでいくら、「先人未踏の山に先鞭を付ける事」という登山思想を持っていたとしても、北海道行脚の途次に今まで誰も登ったことのない困難なルートを登ることは、常識的に無謀といえよう。

  ここで一言断っておかねばならない。当時は層雲峡という名はなく「霊山碧水峡」といった。一九二〇(明治四十三)年、太田龍太郎が探検して「霊山碧水」と命名したが、その後小泉秀雄が「峽」を加え霊山碧水峡として地図にも記名、一九一八(大正七)年その調査記録を「北海道中央高地の地学的研究」(日本山岳会機関誌『山岳』第十二年第二・三号)と題して発表している。このようにまだ層雲峡の名はなかったが、それでは紛らわしいのでそのまま層雲峡の名で記述を進めることにする。

 桂月は当初は松山温泉から入山する計画であった。このルートは明治期から登られており、上川中学(後の旭川中学)の学校登山でもこのコースであった。当時としては最も一般的なコースであり、桂月もそれに従うつもりであったのは当然である。たびたび登って大雪山域を熟知する案内人成田が自信を持って推奨するコースであった。

 しかしそれが一転して層雲峡からの入山に覆(くつがえ)ってしまったのである。そのあたりの事情は桂月は何も語っていない。しかしそこにはそうなるべき何かがあったのである。要するに桂月の層雲峡誘致の首謀者は塩谷であった。塩谷としては自己の所有する塩谷温泉(現層雲峡温泉層雲閣)に桂月を宿泊させ、まだ世に知られていない層雲峡すなわち霊山碧水峡を探勝して新しい峡名を命名すること、凌雲沢(現在の黒岳沢、以下黒岳沢という)を登って無名のピーク(当時小泉秀雄は黒岳と命名していた)に桂月岳を命名することも構想としてあったはずだ。そしてこの層雲峡から大雪山の登山を、当時人気絶頂であった桂月の文の力を借りて全国に売り込もうというのである。

 桂月の層雲峡からの大雪山入山には、仕かけ人がいたようです。その続きは次号で…(続く)

 

《分庁舎だより》☆桂月の北海道旅行は調べ出すと、大正10年当時の交通事情など、筆者が知らなかったことも出てきて大変勉強になっています。基本になる『桂月全集』別巻収録の桂月の日記も読んでいるのですが、メモ書き程度の内容もあり、理解するのに苦戦しています。(誠)

 

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