ヌプンケシ253号

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市史編さんニュース NO.253

タイトル ヌプンケシ

平成24年12月15日発行


◎大町桂月の北海道旅行(3)

 ◇仕かけ人の存在

「塩谷 忠」写真 前号で紹介したとおり、大町桂月が松山温泉(現・天人峡温泉)からではなく、層雲峡を経由して大雪山に登ったことには、仕かけ人に塩谷忠という人物がいたことを清水敏一氏が『大町桂月の大雪山』で明らかにされました。塩谷の経歴も、次のように記されています。

 「塩谷忠は桂月層雲峡誘致の中心人物であり、黒岳沢より大雪山登山の企画者である。層雲峡を案内して桂月に大きな感銘を与え、そして運よく黒岳沢よりの登頂に成功して桂月に初登の栄誉を与えた。桂月岳命名を提唱したのも塩谷である。桂月はその紀行を、『層雲峡から大雪山へ』(『中央公論』)、『北海道山水の大観』(『太陽』)として発表、桂月の文名によって層雲峡と大雪山を全国的に知らしめたのであった。こうして計画から実行、結果へ、全てが塩谷の思いどおりに事が運んだ。彼はまさに名プロデューサーというべき人物である。」

 「塩谷忠は一八九四(明治二十七)年福岡県人板垣幸助の次男に生まれる。塩谷水次郎(層雲峡温泉開拓者の一人―引用者)の養子となり、一九一三(大正二)年以来、『北海』『北海旭』『小樽』『新小樽』『北海タイムス』『時事新報』に関与し、長年記者として新聞界に活躍した。特に層雲峡、大雪山の開発に情熱を注ぎ、大雪山調査会の理事として活動したことは前述した。晩年は旭川市二条三丁目の自宅で余生を送った。一九五八(昭和三十三)年五月十五日、狭心症で没す、享年六十四歳。戒名『自徳院洪岳層雲居士』いかにも塩谷にふさわしい名である。」

◇桂月を説得

 松山温泉(現在の天人峡温泉)から大雪山へ登るのが、当時の一般的コースでした。それを変更させて「いかにして層雲峡に招致するかに悩んだ塩谷は、時の旭川区長(当時旭川は市ではなく区であった)市来(いちき)源一郎に相談した。塩谷は温泉開発の出願などで市来にはかねがね便宜を計らってもらっており、親しい間柄にあったのである。市来によると桂月一行は札幌から旭川に向かう途中、神居古潭に立ち寄り探訪するという。この機を捉えて桂月に層雲峡への変更を懇請すべしということになった。その役目は市来が当たることになり、塩谷は層雲峡に先行して受け入れ準備万端を整えるということになった。」そうです。

 8月18日、神居古潭で市来は桂月に石狩川奥に「霊山碧水」という知られていない絶景地があるので、ぜひそこを経由して大雪山に登り、松山温泉に下山するように頼みましたが、最初桂月は頑として受け付けませんでした。最後に市来は「男子の面目、男の約束」と桂月の弱点である義理人情に絡めて、拝み倒して何とか承諾させることに成功しました。19日、桂月一行は旭川を出立、留辺志部(現上川市街)で一泊。20日、層雲峡の塩谷温泉に到着しました。

◇層雲峡の命名

 塩谷は「霊山碧水峡」に代わる命名を桂月に依頼し、次のような遣り取りがあったそうです。

  「さて桂月は始め『愛別渓(峡)』『風塀渓(屏風渓?)』『天柱渓』などの名をあげたが、塩谷は納得しなかった。塩谷は当時最奥の部落をソウウンベツ(滝のある川の意)といい、双雲別、草雲別、叢雲別の字を当てていたが、独り小泉のみは層雲別と書いていたのを思い出した。折しも峡谷一帯に朝靄がかかったと見る間に朝陽山から夏雲峰にかけて白雲たなびき、それが重なり合ってあたかも層雲の形となった。/塩谷は層雲の自然現象と層雲別が当てはまることを桂月に告げると、桂月は思わず手を打って『層雲峡』としたらどうだという。塩谷も意義なく大いに賛成の意を表してその名が誕生した。つまり層雲峡の名は桂月を前面に出して、二人の合作ということになろう。塩谷自身も合作というべき名称と記している(『大雪山記』による)。ということは命名の日は、登山当日すなわち八月二十二日の早朝ということになる。」

◇黒岳沢登行は無謀だった。

 『大町桂月の大雪山』の著者、清水氏は黒岳沢登行を次のように批判しています。

 「桂月一行の黒岳沢登行は、無謀な登山であった。幸い好天に恵まれて成功したものの、多分に僥倖(ぎょうこう)であったといわねばならない。一つ間違えば事故につながり、天候が悪化すれば大惨事にもなりかねない。いうならば登山計画が極めて杜撰であったといえよう。この責任は全て塩谷にある。」

 着流しで六尺褌姿の桂月に象徴されるように、ろくな服装、十分な装備もなく、食糧も不十分で、足元は全員草鞋ばき、一番大事なものはお酒で、誰も最後まで登ったことのない黒岳沢に挑戦したことは、登山に素人の筆者から見ても大変危険なことでした。

◇大雪山登山の顛末

 その詳しいことは『大町桂月の大雪山』を読んで頂くこととして、大雪山登山の顛末を要約すれば以下のとおりです。

 桂月、塩谷らは大正10(1921)8月22日に層雲峡を出発して黒岳沢から登って野営、8月23日には無名岳を塩谷の提案で「桂月岳」として、その日の午後、桂月を層雲峡に誘致するという所期の目的を果たした塩谷ら5人は、大雪山縦走を続ける桂月一行4人と北鎮岳で別れて下山しました。テントもなく食糧も乏しい塩谷らは、下山を急がねばならなったのです。彼らは下山途中で露営したものの夜中に雨が降り、24日夜明けと共に増水した黒岳沢とは違う別ルートで雨中を強行下山、午後9時に層雲峡温泉に着くことが出来ました。翌25日には疲労困憊しながらも何とか旭川に戻りました。

 その頃、下界では桂月一行が遭難したのではないかと大騒ぎになっていたのでした。8月26日付『北海タイムス』には「大雪山入りの桂月氏不明 予定の一昨日も帰らず」との見出しで、19日に旭川を出発した桂月一行が、旭川帰着予定の24日になっても帰らず、各方面に安否を確認中であることが報じられ、27日には旭川から捜索隊を出す手筈になっていました。

 そのことを26日に北海タイムス旭川市局長から知らされた塩谷は、対策本部に急行、桂月らは無事登山を続行中で、夕刻には旭川に帰着予定であることを伝え、関係者を安堵させました。

 一方、桂月一行は24日白雲岳、旭岳に登頂、25日には下山して松山温泉(天人峡温泉)で宿泊、26日は暴風雨でしたが、行方不明と報じられていることを知った彼らは、最短距離で駅があった美瑛まで行き、旭川には午後9時につくことが出来ました。

その後は大宴会続きで、「さすがの桂月もこれ以上滞在すれば体が持てそうにないと、四日目の二十九日、一番列車で網走に向けて出発することになった。/(略)/かくて桂月一行は二十時、網走着、北海タイムス網走支局長山本馬太郎宅に落ち着き、網走、北見、温根湯、根室、野付半島、釧路などを旅し、帰途小樽、函館その他で講演、書会を催し、十一月六日青森に上陸、十和田湖の探勝に向かったのである。」やっと、次号で当地域のことが登場します。(続く)

 

《分庁舎だより》☆1126日、療養中であった菅原政雄先生がお亡くなりになり、公私共にお世話になった筆者にはショックでした。従来市史で未解明であった文化面に焦点をあて、追求された先生のお仕事・著作は貴重な遺産です。先生のご遺志を継ぎ、前進したいと思います。()

 

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