ヌプンケシ254号

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市史編さんニュース NO.254

タイトル ヌプンケシ

平成25年1月1日発行


謹んで新年のお慶びを申しあげます。本年もよろしくお願いいたします。 


巳年◎大町桂月の北海道旅行(4)

 

◇桂月ら、網走へ

 前号では、酒好きの桂月も連日の宴会攻めには悲鳴をあげて、大正10(1921)8月29日の朝一番の車で旭川を発ち、その日の午後8時に網走に着いたとレポートしたところです。

  読者の方の中には、何故そのように時間がかかったのかと疑問の方もいることでしょうが、現在、旭川と網走間を走っている石北本線(当時は石北線)の全線開業はずっと遅く、昭和7年(1932)10月のことでした。また、旭川から名寄に北上し、名寄線で興部、中湧別、遠軽、野付牛を回って網走に着くルートが全通したのは、大正1010月のことです。

 ですから、この8月時点では桂月らは旭川から富良野を通り、池田まで南下、そこから北上して野付牛を経由、網走に着くという丸一日の大旅行をしなくてはならなかったのです。

 さて、その網走での桂月らの動向ですが、手持ちの網走関係資料では平成11(1999)3月発行『網走文学散歩』の年表に大正10年のこととして「文人大町桂月来遊演藝館で講演」とあるのと、平成20(2008)3月発行『網走市年表』の大正10年の項に「この年の秋、文人大町桂月来遊」とあっただけで、具体的な記述はありませんでした。

 そこで『桂月全集』別巻にある桂月の日記を見ると、酒疲れのためか、30日は宿にした山本馬太郎宅で終日来客の相手をし、文章を作ったとあります。31日午後には網走監獄の馬車で眺望の良い三眺山に出かけ、帰りに網走監獄を見学しました。9月1日も山本宅にいたようです。

◇網走から常呂へ

 9月2日、桂月と従者の田所碧洋は、ドン・キホーテとサンチョみたいに網走から常呂へ向うのですが、この時の様子については常呂図書館に『桂月全集』別巻の抜粋など資料を集めてファイルした「大町桂月に関する資料」と「大町桂月常呂滞在(大正10年9月)関連資料」がありましたので、それを基にレポートしたいと思います。

 さて、『桂月全集』別巻の日記では、この道中を次のように記しています。

 「九時半発、貢氏(田所の本名―引用者)二人馬、馬夫つかず。小さな馬、町はづれにて馬、人を馬鹿にしてうごかず 止むを得ず。二人ひきゆく。五六町すぎてのる のこのこうごく、白馬の男(逓送人)卯原内郵便局へゆく人、先にたち、木枝むちをこしらてくれる、始めて小走に走る、萩馬上の人よりも高し、虫の声 卯原内まで三里二十丁一家もなし、左に一寸網走湖を見 右に熊(能の誤記―引用者)取湖だんだん接近す、ぐるり低き山 左はひらけたり、馬車馬夫はねむり、馬ひとりにて歩くのんき也。七ツ葉花黄也。萩馬上の人よりも高し、一本みち也。十一時半卯原内の駅逓めしをたいてもらう、馬をのりかふ、ていそう人アイノ也。/のりかへ、馬追ひ、馬にのりてせんどうす、湖畔にさんごのような草生ふ。/ばんがた常呂へつく、イワケシュ山最高、眺望よし、三湖一海里三里四方の平野」

◇駅逓を利用

  桂月はこの道中で利用した駅逓が大変印象的だったらしく、先の日記の話を膨らませて「三たび北海道より」と題して、書簡文の形で雑誌『日本青年』に次の紀行文を寄せています。

 拝啓。真の北海道の気分を味ふには、駅逓の馬に乗ることに候。汽車の旅だけにては、真に北海道を見たりとは言へ申さず候。駅逓とは馬を継立てる處に候。これ内地には全く之なく候。北海道にても、すでに開けたる西部には稀にして、未だ開けざる東部に多く候。想像しても見給へ、四五里の間、唯道路ありて、人家は一軒もなき處、一軒だけ駅逓ありて、乗りて来りたる馬と其處の馬と乗換へる次第に候。駅逓にて午食することを得べく、宿泊することをも得べく候。二十世紀の世界を離れて、昔の世界に旅行する心地いたし候。その駅逓の馬にて就き、いろいろ滑稽談有之候。網走よりその駅逓の馬に乗りて猿間湖方面に向ひ申候ひしが、同行は田所碧洋と申す青年に候。碧洋は馬といふものに始めて乗りたるにて候。小生は始めてにはあらず候へども、極素人に候。町はづれ迄は馬がのそのそ歩き候ひしが、町はづれへ来ると、一歩も進み申さず、手綱を引張つても、緩めても、足にて腹を蹴ても、打つても、叩いても、唯後へ退くのみに候。止むを得ず、馬より下りて、手綱を引張つて数町歩き、そして乗り候ひしに、ようやく歩き出し候。町はづれには駅逓の厩有之、馬は我家の前とて行くの厭がりたるにて候。数町過ぎては、馬も諦めて、歩くには歩くが、少しも捗り申さず、後より郵送の人夫、馬にて来り候ひしが、二人の乗様を歯痒く思ひしものと見え、路傍の小枝を折つて二人に呉れ、それで馬をお打ちなさい、私の後についてお出でなさいとて、先に立ち申候。その小枝にて馬を打ち候へば、馬始めて早く歩き申候。後には鞭うたずとも、先導の馬徐歩すれば、小生の馬も徐歩し、先導の馬疾歩すれば、小生の馬も疾歩いたし申候。斯くて四里の間を二時間半にて通過致し、卯原内と申す駅逓に着き申候。こゝは能取湖に瀕する處にて、家は駅逓の外に、郵便局が唯一つあるのみに候。網走よりそれ迄にも、人家は唯一つ二つ之あるのみに候。駅逓にて馬を下り候へば、郵送の人夫は郵便局の用事を終るより早く、小生等二人の馬を引きつれて、網走へ帰り申候。網走の駅逓にては、自ら従はずして、二馬を連れ戻ることを郵送の人夫に依頼したるにて候。後に聞けば、郵送の人夫は旧土人(アイヌの別称―引用者)に候。言葉と云ひ、様子と云ひ、内地人と異ならず、唯言はれて見て、始めて目付や眉の具合が少し異なり居れりと気付き申候。御一笑あれ、小生は旧土人に馬に乗ることを習ひ申候。筆を執れば旧土人の何人にも劣らぬ小生も、馬に乗れば、旧土人の何人にも劣り申候。

 卯原内よりは駅逓の男が馬に随ひ来たりて、先に立ち申候。その日は常呂と申す村に着きて、駅逓にして、宿屋を兼ぬる家に宿り申候。駅逓の由来を尋ぬるに、北海道を開拓せし際先づ大道を通じて、四五里毎に小屋を立て、米と味噌を備へ置き候ひしに、旅人の中には米味噌を盗みて持ち行くものあるより、番人を置くやうになり、その番人が馬を飼ひ、宿屋を営むやうになり申候。卯原内がそれにて候。それが進みて、部落を成す土地となれば、半駅逓半宿屋となり申候。常呂の宿がそれにて候。それが猶一層進めば、宿屋専門となり、駅逓の制自ら廃れ申すにて候。北海道の西部は幾んどみなそれにて候。(後略)

 

 この紀行文は大正時代に駅逓がどのように利用されていたかを知ることのできる資料ですが、間違いもあります。駅逓には取扱人を置くのが本来で、僻地では応募がないため、暫定的に食糧等を置いて利用させていただけで、窃盗対策用に管理人を置いたわけではありません。(続く)

 

《分庁舎だより》☆皆さんお元気ですか。年末、年始、桂月のようにお酒を飲みすぎてはいませんか。注意しましょう。本年は市史編さん事業も目次大綱を決定し、各執筆担当者を決める段階に入ります。4自治区それぞれの歴史を大切にして、良い市史を作りたいものです。()

 

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