ヌプンケシ255号

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市史編さんニュース NO.255

タイトル ヌプンケシ

平成25年1月15日発行


◎大町桂月の北海道旅行(5)

◇網走駅逓、卯原内駅逓、常呂駅逓

 前号の文中にあった駅逓については各種混乱がありますので、整理してみましょう。

 昭和46(1971)3月刊行『網走市史』下巻、昭和54(1979)1月発行の田崎勇著『北海道(官設)の駅逓所』上巻、平成6年(1994)4月発行の田中幸重著『北見國官設駅逓所調べ』、平成8年(1996)1月発行の宇川隆雄著『北海道宿駅(駅逓)制の研究』下巻を総合すると、網走駅逓は安政3年(1856)に漁場請負人藤野某が駅務を取扱ったことに始まり、途中から原鉄次郎、明治29年からは松坂新太郎と経営者が交代したようですが、「私立」であったようです。その従来からあった私立駅逓との関係は不明ですが、北海道庁告示第六十四号により明治37(1904)2月10日付で「官設駅逓所」の「網走駅」が網走郡網走町に設置されました。明治35(1902)から37年の間に網走から湧別までの道路が整備開通したようですから、それに伴って官設の「網走駅逓」が設置されたのではないでしょうか。なお『網走市史』下巻には当該駅逓は宿抜きの「人馬継立業」のみの業態で「北見町仲通」に所在とありますが、具体的な場所を示す資料は見当たりません。網走駅逓は大正14(1925)5月31日限りで廃止されました。

 卯原内駅逓は北海道庁公報告示で見ると、明治37(1904)1214日に開設され、昭和4年(1929)6月30日廃止されました。この駅逓も網走から湧別までの道路開通で設置されたものでしょう。『北見國官設駅逓所調べ』を見ると「大正10年2月16日郵便局が設置され独立し片山丑之助が局長となった。其の頃は網走常呂間に機船が通う様になり、夏の通行はほとんど無く冬期のみが賑わった。」とあり、桂月が紀行文に記した郵便局のことと一致します。大正15(1926)にはバスが運行され、この駅逓は昭和4年(1929)6月30日限りで廃止されたとのことです。

 常呂駅逓の設置についても、資料によって開設年がまちまちですが、これも北海道庁公報告示で拾うと、明治25(1892)3月31日開設で、廃止は昭和5年(1930)6月10日です。この駅逓もどこにあったかは明確ではありません。

◇機船の運行

 卯原内駅逓の引用で夏期網走・常呂間の機船運航が記されていましたが、『網走市史』下巻に「網走では、大正四年八月七日、『石油発動機船北見丸運転ニ付、野坂・坂上両氏ヨリ招待アリ。本船ハ新造ニテ、網走ヲ中心トシテ東西航海スル趣。』[高田源蔵日記]とあり、はじめは斜里・常呂などへ随時運行、貨客の増加にともない定期航海を行なうようになったらしく、大正十二年の網走町勢一斑には、『近年斜里・常呂ノ近海航路開ケ、発動機船ニヨリ出入頻繁ヲ極メツツアリ。』と報告され、その時刻表をのせている。」とあり、その時刻表(原文)は下記の通りです。

 「網走常呂間 四月ヨリ十二月マデ毎日往復

   往航 網走発 前  六・〇〇 後三・〇〇 /常呂着 前八・三〇 後五・三〇  

   復航 常呂発 前一二・〇〇 後六・〇〇 /網走着 後四・三〇 後八・三〇 」

 

 夏場は地域住民が網走との往来に機船を利用していたとあれば、桂月らが道中で一般人と会わなかったのも道理でした。定時に常呂に着くのなら機船利用が順当ですが、彼らは多分二日酔いだったことでしょうから、体調を考えて船旅よりは馬の旅を選んだのかもしれません。

◇常呂村訪問

 桂月の常呂村訪問に関して大正10(1921)の常呂村役場当直日誌9月2日の記事に「本日午後四時文学士大月桂月氏来村 同八時ヨリ市街公会堂ニ於テ講演 聴衆二百余名 盛会ナリシ」と記録が残っていました。なお、この時の演題は昭和49(1974)豊川部落発行『イワケシュ郷土史』によると「皇室中心主義と思想問題」のようです。

 さて、網走駅逓と常呂駅逓の距離は6里5町とされて、網走・卯原内間は3里28町だそうですから、卯原内・常呂間は2里13町ということなります。(ちなみに1里は36町に換算されます。)前号でみた桂月の日記では、網走・卯原内間を2時間で来たことになっています。それよりも短い距離の卯原内・常呂間なのに桂月らが午後4時に役場に着いたということは、その前に時間を要する出来事があったということになります。

  9月2日の日記最後には「イワケシュ山最高、眺望よし、三湖一海三里四方の平野」とあり、前掲『イワケシュ郷土史』にも大正「十年 文豪大町桂月本村に立ち寄り イワケシュ山頂から遠くオホーツク海をみて知床連峰・斜里岳等、雄大な大自然に感嘆したという。その時の道案内は、常呂村二代村長 大柿千代太郎他有志一同であった。」ともあるので、桂月は講演会の前に地元の人達の案内でイワケシュ山(イワケシ山)に登ったのは確かでしょう。

  真偽は定かではありませんが、常呂村の青年団長小林千代松氏(後の初代町長)が出迎えのために仲間と共に待っていたが、桂月らは一向に現れなかった。それもその筈、網走から一升瓶を傾けながら来る途中の卯原内で落馬して、その手当で遅くなったとも伝えられています。

  当夜、どのような歓迎会が開催されたかは何も記録はありません。ご想像におまかせします。

 ◇イワケシ〔ヌプリ〕

  桂月が称賛したイワケシュ山(イワケシ山)については、昭和58(1983)発行の伊藤せいち著『常呂町のアイヌ語地名』で次のように解説されています。

  「イワケシ山、425.3m。イワケシは『山尻』、つまり山すそを指すが、山名にも用いられている。あえて山を指す時にはヌプリ(山)をそえイワケシ山る。岐阜、富丘、豊川の低平地をさえぎる山で、神聖な山とされている。この山は佐呂間方面へもつながり、浜佐呂間南側の山もイワケシ山と称している。/この山には伝説がある。渡辺要編「変遷」(常呂村史、1941)によると、――斜里アイヌと北見アイヌの衝突は、常呂であり、北見アイヌは、常呂神社のあった所に第一のとりでを、イワケシ山に第二のとりでをきずき、斜里アイヌの進出を阻止するためにそなえた。戦いは長じ、第一とりではもちろん、第二とりでも四方から火を放たれ、北見アイヌは負けてしまう。イワケシ山は従来女人の入山を許さず、また戦いのきざしのある時には常呂川の水かさが上がり、白ヘビがイワケシ山へのぼり、雷雨を呼ぶと伝えられていた。せめて来た斜里アイヌの中にメノコがいたため、山の神の怒りにふれ、全山火の海と化し、敵味方共に焼き殺されたという。北見アイヌの武将無念やり方なく、その血は全山に満ち、赤土と化したという。」なかなか興味深い伝説ですね。(続く)

 

《分庁舎だより》☆新年のご用始めは7日で長い正月休みでしたが、皆様には良いお正月でしたか。筆者は全くの寝正月で、本はやっと6冊読みましたが、石器時代と縄文時代の本を読むと、新発見が続々あり昔の常識は通用しません。更なる勉強の必要性を痛感した次第です。(誠)

 

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