ヌプンケシ259号

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市史編さんニュース NO.259

タイトル ヌプンケシ

平成25年3月15日発行


◎大町桂月の北海道旅行(9)

◇家庭学校訪問

 大正10(1921)9月5日朝、家庭学校に向う桂月を、林保衛氏は汽車に同乗して留辺蘂まで見送りました。遠軽駅を過ぎて、社名淵駅(後の開盛駅、廃線で廃止)に下車。ペンネーム三島義介(我羊)こと品川義介の出迎えを受け、「もと空知集治監の教誨師」留岡幸助とも引き合わされます。この時に桂月が留岡に会ったことは『留岡幸助日記』第4巻に「天地の真の道を来る客と/語りて学ぶ時ぞ嬉しき」という歌に続いて「大町桂月氏 大正十年九月五日突如として来訪。」とありますので、間違いないでしょう。

 本道より脇道に5町入った辺りに来賓用の建物、樹下庵がありました。富豪の娘で、同志社大学女子部(卒?)の秋田女史(秋田鶴代)にも会いました。「礼拝堂」、畜舎等の施設や、品川と生徒達が発掘した「石蔟、石斧 土器」類を展示した「掬泉館の博物館」に案内されました。

 樹下庵で昼食後、次の歌を作りました。「円なる平和の山にわき出でゝ/恵の谷をしらす真清水 あなたにと」(「に」はの誤記でしょう。「あな たふと」とは大変尊いという意味です。)

 家庭学校から遠軽駅まで、品川と鈴木が送ってくれました。ここに登場する鈴木とは、現地家庭学校建設の責任者であった鈴木良吉のことと思われます。

◇9月5日は温根湯温泉に一泊

 汽車に乗るころには夜になって、三日月が見えました。留辺蘂で降りて「温思子温泉 温思湯」(温根湯)へ行きました。温根湯でどこに泊まったかは何も書いてありませんが、日記余白に書かれた地図に「大江」の文字がみえますから、大江本家に泊まったのかもしれません。

 温根湯温泉について桂月は、『北海道山水の大観』で「一九 音根湯温泉」と題して、素っ気なく次のように紹介しています。

 「北見の留辺蘂駅より、乗合自動車ありて、音根湯温泉に通ず。野の末、丘に拠り、清流に臨みて、数件の温泉宿相並べり。登別、湯川、定山渓などには比すべくもあらざれども、東北海道にて温泉場らしき處は、唯此處のみ也。」

 この夜は大人しく詩作を試みていたようで、林家に送る漢詩の習作が日記に見えます。

 「一別回頭四十年 何図北地再逢縁/且悲且喜酒杯裡 上話人多在九泉/似林大兄」

 訪問した社名淵で作った次の漢詩も日記にあります。

 「何須長廣舌 天地自開才/流出満身汗 熟知大道来 社名淵作」

 また、家庭学校の風景を詠んだ歌も記録されています。

   朽木たく子ども四五人百合の花       蝦夷菊や谷の清水のちよろちよろと

   礼拝の堂にとゝかぬ夏木立        とりたての野菜の味や樹下の庵

   半分ははげても青し平和山        師の家と宿舎の間花壇哉

   牛眠り豚くひ馬なく夏木立            

 『留岡幸助日記』第4巻を見ると、9月6日の桂月日記にある「あなたふと平和の山にわき出てゝ/人の命すくふ真清水」と一緒に、先に引用した一連の歌が掲載されていますから、後日桂月が家庭学校訪問記念として書き贈ったものと思われます。

◇乗合自動車の様子

 9月6日の朝は雨でした。桂月は8時5分前発の乗合自動車で留辺蘂に向かいました。

 この時の乗合自動車とはどのようなものだったのでしょうか。昭和39(1964)9月発行の『留辺蘂町史』によれば、「大正十年春大江平吉は大江自動車部を設け、フォード六人乗りを購入し留辺蘂・温根湯間の旅客輸送を開始した。」とありますから、左の写真の車に乗ったのでしょう。

 桂月は乗合自動車の様子を日記に書いていますが、それを筆者が推理して再構成すると次のようなことになります。

 出発時刻までに桂月を含む三人が後部座席に乗り込んだが、定時に人がやってきて、子どもを背負った老婦がくるので待てくれというので待った。その内、運転席などに二人が乗った。「五分たつから出よう。」と運転手が言うと、車掌が「来た、来た、ハイカラさんだ、待ってやれ。」と言い、そこに乗り込んできたのは、おでこで色の白い若い女だった。その女は桂月とは向き合わず、前を向いて、後ろ姿を見せるかたちになった。その容姿は「黒髪、ねがけ赤し 衣紺 帯白地に紫赤をちらす 女はうしろすがた美也」。

 道端には昼顔、七つ葉の花が咲き、乗合自動車は微雨の中、幌も下ろさずに走った。

 昨夜は自動車の動揺がひどかったが、今日は乗っている人数が8人のせいか、いくらか揺れ方が少ないようだった。

 6人乗りの自動車に、日記では8人を乗せたとありますが、若い女の座った位置から推測するに運転席と後部座席との間に仮設座席を設けたようです。当時の日本人は小柄でしたから、可能だったのでしょう。この日記の記述も、当市交通史への貴重な証言には違いありません。

◇9月6日は野付牛で一泊

 汽車で留辺蘂から野付牛に来て、桂月は書会(揮毫会)を開催しました。会場は書いてありませんが、日記に「市川旅館若主人 高田實太郎」の名がありますから、多分駅構内で黒部旅館(大通り西1丁目)の向い側にあった市川旅館だったと思われます。

 この日の日記に家庭学校に贈った「あな尊平和の山…」云々があります。また、現在林家にある漢詩「一別回頭四十年 何図北地再逢縁/且悲且喜酒杯裡 話柄人多在九泉」もこの時に書かれ、寄贈されたと思われます。「保衛さんに矢立をおくること」も日記にメモされています。

 斡旋者と思われる永瀬某から桂月に届いた6月17日付連絡メモによれば、その野付牛町で揮毫を希望した者は、次のとおりで、当時の有力者たちが名を連ねています。

 道会議員 前田駒次、町長 鈴木浩氣、町会議員 矢武伊太郎・馬場亀十郎・川村恒馬・田中金蔵・加藤伊三吉、有志 鈴木幸吉・梅谷豊三郎・吉野萬輔・中島甚四郎、北見新聞社長 影谷、釧路新聞支局 岡部清太郎、北見實業新聞支局 谷松城

 なお、この書会を仕切ったのか、宴会で意気投合したのか、日記には北見實業新聞支局 谷武次(松城?)、北見新聞 井浦撤人(正確には徹人)の名前が、何故か二度も出てきます。

「元是深、叢熊所遊 烟華桀爛似揚州/腰纏百萬十年後 鳥鶴重来野付牛」を酔吟とありますから、酔った余興に漢詩を吟じたのでしょう。やはり桂月に酒がつきもののようです。(続く)

 

《分庁舎だより》☆この3月11日で、東日本大震災も2年が過ぎました。明治・昭和と大津波に遭い、高台に移住、その後、漁に便利な浜辺に戻り住んで今回も壊滅した集落がありました。悲惨な災害の記憶が薄れ、利益が優先されて、教訓が活かされなかった悲しい一例です。()

 

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