ヌプンケシ4号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-23-7111(代)


市史編さんニュース NO.4
タイトルヌプンケシ
平成13年7月15日発行

 「北見」という市名の由来について、市民の皆様から繰返しお問合せがありますので、ここでまとめてレポートしておきたいと思います。
[北海道と北見の地名由来] 画像夏休みの日記とエンピツ
☆名付け親は松浦武四郎(1818〜1888)
松浦武四郎 北海道と北見の名付け親は、幕末の探検家、松浦武四郎です。彼は文政元年(1818)に、伊勢国(三重県)に生まれ、若い時から本州、九州、四国の名跡を歴訪し、天保14年(1843)に長崎で出会った津川文作から北方の重要性を説かれ、蝦夷地(北海道)・樺太に大きな関心も持つことになりました。
幕末の本道は、北半部を西蝦夷地、南半部を東蝦夷地と区分されていました。 最初に武四郎が蝦夷地に来たのは弘化2年(1845)で、当時は一般旅行者の取締が厳しかったので、江差でわざと人別帳に籍を入れ、東蝦夷地の踏査に入り、太平洋沿岸沿いに箱館〜礼文華〜室蘭〜沙流〜釧路〜厚岸〜根室〜知床まで足をのばしています。
 翌年弘化3年(1846)に北蝦夷地(樺太)勤番役の下僕として渡道し、樺太を探検した後に、単独で宗谷を出発、枝幸〜紋別〜知床とオホーツク沿岸を踏査した結果、彼は北海道沿岸部一周したことになり、この探検で語学の才能を発揮、アイヌ語を修得しました。
 その後、国後、択捉両島を探検し、嘉永3年(1850)には江戸で蝦夷地探検を記した三冊の『蝦夷日誌』を刊行、幕府、大名の間で蝦夷通として認知され、特に水戸烈公(徳川斉昭)の知遇を得て以後、幕府御雇として、道内、樺太を巡視できるようになりました。 安政3年(1856)には箱館〜道央〜宗谷〜オホーツク沿岸〜十勝〜日高〜胆振〜太平洋沿岸〜箱館のコースで第4回目の蝦夷地踏査を実施、その記録を『東西蝦夷地廻浦日誌』にまとめ、幕府に献上しています。この時、常呂沿岸のアイヌから北見地方内陸部の聞き取りをし、これが第6回目の常呂川を遡上する踏査の動機になっているようです。
 安政4年には幕府の命により東蝦夷を調査し、『丁巳日誌』として報告しています。
 安政5年(1858)、最後になる第6回の蝦夷地踏査を行い、特に重要なのはこの時、前号で報告したとおり、常呂川をさかのぼり、実際に北見を通過して、訓子府まで足をのばして『戊午登古呂日誌』として記録していることです。
 安政6年(1859)、武四郎は病気を理由に蝦夷地御用掛を辞して江戸に戻りましたが、明治元年(1868)新政府が箱館裁判所を置いたときに裁判所判事として登用され、翌年開拓使が設置されると開拓使判官に任命され、明治3年(1870)3月その職を辞しますが、この間に後述するとおり、北海道の名称等を上申しています。
 これ以降、武四郎は二度と来道することなく、明治21年(1888)70歳で没しています。
武四郎の残した数々の記録は、単なる地誌でなく、アイヌの側に立って幕末の蝦夷地支配の問題点を明らかにし、その実情を知る上で貴重な情報を提供してくれています。 
☆北海道と北見国/網走が北見だった!画像きつねたち
明治政府は明治2年(1869)8月、太政官布告第七三四「蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」をもって蝦夷地を北海道と改称し、これを十一カ国に分割、さらに国を分割して郡を設けることとしました。
 武四郎は、この原案となる『国名之儀に付申上候書付』を明治政府に提出しましたが、蝦夷地については「日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北海、千島道」を改称案とし、このうち「北加伊道」が採用され、「加伊」を「海」にかえて命名されました。彼が「北加伊道」を提案にしたのは「アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、アイノーと呼びあってきたから」(花崎皋平著『静かな大地』より)だそうです。
 また、宗谷、斜里、利尻、礼文、枝幸、紋別、常呂、網走の八郡をもって「北見国」とするとしましたが、その「北見」の由来は「この地一帯を従来から北海岸と唱えてきたので、北の一字をとること、さらに快晴の日には樺太島が見えるので、北見と命名してはどうか」(下線は引用者)とのことでありました。こうして「北見国」は広い地域の区画として命名されましたが、全体を統括する地方行政機構としては運用されませんでした。
 そのかわり、明治14年(1881)、開拓使網走外三郡役所の所在地として、現在の網走市の中心街あたりを「北見町」と名付けました。その後、明治35年二級町村制の施行で、北見町外八カ村は網走町、能取村、藻琴村に統合され、北見町は字名として網走町の中に取り込まれ、大正15年(1926)大字の廃止で網走から「北見」という地名はなくなりました。
 野付牛町が北見市に改称した時、網走の住民から強い異論があったそうですが、もし廃止されずに網走に北見という字名があったら、改称は不可能だったかも知れません。 
☆野付牛町から北見市へ 画像に匹のひよこ
 昭和17年(1942)に「何故、野付牛町が北見市に改称されたか」は議会に提案理由が残っていればはっきりするのですが、当時の野付牛町民が急速に発展する町勢を背景に網走支庁管内の拠点都市「北見国の中心市=北見市」となる考えがあったのと、開基六十周年記念の『躍進北見市の全貌』(昭和32年発行)で「“野付牛”はアイヌ名で“野の端”といわれ、ヌツケウシ、ヌプケウシ、ヌプウンゲシ、ノツケウシなどと書かれ、明治8年に野付牛の漢字をあてたものだが、“ノツケウシ”では対外的にも感心しないので、改正の意見は早くから出ていた。それが市になると“ノツケウシシ”で、さらにゴロが悪くなるので、一部の反対はあったが、ついに改称を決定した」と書いてあるのも事実でしょう。画像原稿用紙とマンネンヒツ

 今回も「松浦武四郎」という人物や「北見」という地名を調べてみても、市史編さん担当者として知らないことばかりで、ますます勉強しなくてはと思いました。
 《窓際だより》画像アカワインで乾杯
☆6月27日、加藤写真館社長加藤利次様より『南樺太全図』と蝦夷地全図、貴重な2枚の地図をカラー複製して直接寄贈頂き、ありがとうございました。市史資料として大事に利用させていただきますので、今後ともよろしくお願いします。
☆7月5日、北光中2年の生徒さん方が『総合的学習』の取り組みとして『北見の歴史』『今の街なみと昔の街なみ』『人口の推移』などを調べに来庁。若い世代に市史に興味を持ってもらえる良い機会でしたから、私も手持ちの資料でできるだけ応対しましたが、理解してもらえたかは疑問でした。こうした面でも、担当者として努力が必要です。画像飲みごろビール
 
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