ヌプンケシ38号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.38
タイトルヌプンケシ
平成14年12月15日発行

◎北見の芝居ことはじめ(1)
 画像今日は、ちょっと北見での芝居にかかわる話をしてみましょう。
 生きるために労働を強いられていては、芝居を楽しむ余裕もありません。
北見も開拓当時は、食べるのに精いっぱいだったのでしょう。開拓民が芝居を公演した記録は、手元にある村史や町史には記載されていません。
◇ 旅一座
 『北見市史』年表編によれば、明治39年(1906)9月10日「野付牛神社の祭典興行で仮小屋を建て若月一行新派劇を招く。木戸銭として農家は1人麦5升とし満員となる。」とありますが、これは消防組などで町内発展に功績のあった鈴木幸吉の『事蹟録』が出典で、「農村婦女子ノ為メニ」、当時網走で興行中の一行を招き、9月10日11日の両日興行し、「一般ニ非常ナル歓喜ト満足ヲ」与えたとあります。娯楽のなかった辺鄙な開拓地で筵がけの芝居小屋とはいえ、本州からきた芝居を久しぶりに観ることができた開拓民は大興奮したに違いありません。
 置戸を舞台に『続金色夜叉』を書いた長田幹彦(1887〜1964)は、明治42年秋から2年ほど旅一座に入って道内を巡演しています。「荷車6台に道具一切載せて、滝川、池田、野付牛、夕張、室蘭、小樽、留萌と買われてゆくんです。町へ着くとワタシみたいな下回りがタイコを人力車にのせてね『このたび当中村座は御近地にうかがいました?なにとぞみなさまおそろいにてにぎにぎしく御光来のほどを』ってなぐあいに口上をのべる。」、舞台も屏風を背景にした簡素なものであったらしい。「給料は一日16銭5厘だけど7銭あれば食えたし、役者だからゆくさきざきで女には不自由しないし、ハハハ面白くてやめられないわけですわ。」(『北方随談』98回より)
テレビ時代劇にあるような、荷車を押して巡業する当時の旅芝居の様子が伺えます。
◇ 芝居小屋
 北見に常設の芝居小屋ができるのは、明治44年(1911)鉄道が開通して以降と推測され、昭和32年発刊『北見市史』にある松十七翁の回想談によれば、「当時旧市街(今の大通り東6丁目)に楯身
38-shibay友蔵という人が有楽座(その後2条西3丁目に—大正8年—移転友楽座と改称)という芝居小屋を経営していました」とあります。同市史には「明治の末期から昭和の初期にかけて池田宇太郎という人が『ちどり劇団』というのを組織してモン日などに市街や近隣部落を巡回公演していたことが何かに記録されている。」ともあります。鉄道で色々な芸人がやって来るようになり、また地元にも劇団ができたということでしょうか。薄荷景気、第1次大戦下の雑穀景気で北見が発展し、生活に余裕ができた結果ともいえます。
本格的な芝居小屋ができたのは、大正5年(1916)11月で、以前あった北盛座が「梅の家主人梅谷豊三郎や林成一ら野付牛の有志に買いとられ、修理増改築されて北見劇場となった。これは総坪数300坪、中茶屋の設備をもっていて、そこに食堂経営者が入っていた。町制を施行したばかりの野付牛自慢の劇場であった。」(菅原政雄著『ある興行師伝』より)
この小屋は、2条西2丁目のみんとひろば(旧一賞堂跡)と大丸の所にありました。
◇ 素人演芸会
  これも昭和32年『市史』に「誰かの思い出話のうちに素人演芸会なるものの当地における元祖は河原田、小田、松田などという人々が、白鳥号という飛行機がはじめて飛んだ大正6年頃に開催したのがそれだとのこと」と記されています。
この素人演芸会については、吉田邦子さんがまとめられた北見ブックレット『野付牛の名物豆腐屋〜瀬川勇助〜』にその一端をのぞくことができます。この冊子の中で中村幸作さんが「瀬川さんの隣の齋藤捨次郎さんは、元は旅回りの役者(女形)で、北見劇場へもよく来ていました。そのうち野付牛に定住するようになったのです。/勇助さんたちはその手ほどきを受けたらしいです。夕方になると芝居を教えていました。練習場は瀬川さんの2階であったかもしれません。芝居や祭りの物などが、瀬川さんの倉庫の二階に保管されていました。」と証言していますが、この齋藤という人のお店は北見劇場の向かい側、現在の中村陶苑のところにあり、筆者の記憶ではタバコ、化粧品や小間物を商っていました。
素人演芸会の舞台風景写真 昭和10年(1935)3月25日付の『北見時論』に、この瀬川さんたちが公演した素人演芸会の前評判が掲載されています。「◇来る四月八、九両日 野町 北劇で素人演芸大会が開催される。歌
舞伎と銘打っては居るものの、喜劇大会に終るのではないかと観客の方で気を揉んでいる。出演者の総勢数十名、毎日キンボシの二階で稽古に血道を上げている。◇齋藤タバコヤは其の道の玄人であるから悪るかろう筈なく、『安達ケ原』の裡萩は観ものであろう。松さんもその道の苦労人、当一座の名代格『寺子屋』の松王丸や『安達ケ原』の貞任はうまくコナせるだろう。◇佐藤フジノヤが仲々熱心で相当なものだと云うから人は見かけによらぬものだ。
『壽曽我』の工藤祐經や『白浪五人男』の日本駄衛門をつとめる。若松三共堂は義太夫の地があるから『寺子屋』の戸浪、『壽曽我』の十郎など期待される。◇たこよし鴈次郎の『寺子屋』玄蕃 『白浪五人男』の辨天小僧は正に適役、瀬川豆腐屋が『太功記』のみさを、『白浪五人男』の南郷力丸で、大向うを唸らそうと力んでいる。秋田音頭や太鼓ほどに受けるかどうか。◇伊藤建具屋が『安達ケ原』の宗任に出る。盆踊りの太鼓では花形であるが、歌舞伎の舞台はどの程度につとまるか。藤田楳吉が『太功記』の十次郎となって、華々しい初陣姿をお目にかけると云っているが、セリフの方をうまく頼みます。◇山田靴店、阪東末廣、満月小太郎、丸善花屋、熊倉與作、などを始め出演者は一役だけは、主役を振り付けられて、セリフや所作の稽古に汗だくだ。変な手つき足振りは、子どもや家内には見せられぬ図だ。チョボは稲垣、三味線豊澤廣三郎、竹本駒之助、おはやし、杵屋連中、道具立てに不足は無いが、サテー然し春の夜のツレヅレだ。淡い気持ちで観たりみたり。」(原文旧仮名遣いを直してあります。)
キンボシは2条西3丁目の角(現在、矢田果物店)にあり、書道家=番場敬崋さんが経営していた小間物屋で二階が書道教室になっていましたから、そこを稽古場にしたのでしょう。店じまいをした夜、商店街の旦那衆が集まって、わいわい稽古をしている様子が目に浮かびます。舞台写真を見ると舞台装置はともかく、衣装・かつらは本格的であったようです。ですから、これらの衣装・道具・かつらを借りに来る人もいて、思わぬ副収入になった、と娘さんの瀬川礼子さんが『遥かなときから』に寄せた手記に書いています。
しかし、こうした庶民の楽しみも戦時統制が強まるにつれてなくなり、公演の拠点であった北見劇場も廃業して取り壊され、その空き地に防空壕が掘られたそうです。

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