ヌプンケシ43号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.43
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平成15年3月1日発行

43-hituji43-hituji◎北見の芝居ことはじめ(6)
◇高校演劇・文化祭
 先日、高等学校文化連盟担当の先生に電話でお聞きしたら、当市内近辺の高校で演劇部のあるところは北見緑陵・北見北斗・北見藤女子・北見商業で、部員数も少なく2、3人のところがあるそうで、また「北見柏陽には同好会はあるようだが、活動は不明」とのことでした。
 現状はこの様なのですが、かつて北見の芝居の中で高校演劇の占めていた位置は小さくありませんでした。下の写真は昭和26年の北見柏陽高校の文化祭演劇発表の様子です。

43-eygeki 余談ですが、私は昭和38年度から昭和40年度まで北見北斗高校に在学していましたが、その頃の文化祭の花形は、今はやりの吉本新喜劇の「まね事」や「バラエティショー」と違い、「演劇」でした。演劇部以外でも教員演劇があったり、各学年2クラス連合で役者・スタッフを揃え、1年生から3年生まで対抗して、文化創造活動としての芝居を盛んに競い合っていました。こうした文化祭の体験から卒業後、演劇の道に進んだ人もいました。市内各高校においても同様の状況だったと思います。
◇似内盛蔵先生と高校演劇部
 初期の河童では、北見北斗高校演劇部が公演を手伝い、卒業生が入団していたようです。さて、この北見北斗演劇部ですが、まだ北見中学校であった昭和22年(1947)春に校友会の一部として結成され、同校に昭和21年1月31日から25年4月30日まで在職されていた似内盛蔵先(1904.2.20生〜1991.11.10没)が顧問をなさっていました。ちなみに、似内先生は劇団河童創立メンバーである島田久氏、米田早苗氏の恩師でもありました。
 この「演劇部は、発足以来二年間に似内先生翻案脚色にかかる『青春』を始め菊池寛の『まね』、有島武郎作『ども又の死』、山本有三作『本尊』の四本を上演し、本校での発表のほか、市の行事に協賛参加したり、留辺蘂や訓子府、置戸などからも招待をうけて""地方巡業,,をしたのだった。中心になったのは榎、佐々木、角、高橋、熊谷、瀬川、木村、塚本君たちであったが、とりわけ顧問の似内先生の尽力は大きかった。この当時は全道的にみて、演劇部をもつ高校は、二,三校に止まり本校の演劇活動は進んでいたといえよう。
 二十四年には松元豊君を中心に沙翁劇『ベニスの商人』を六月に発表、さらに十月の第一回文化祭に真船豊作『太陽の子』二幕を上演した。これは初めて女子高校演劇部と協力して作ったもので、基本演技と発声練習に毎週二回放送局に通ったり、資料調査に遠軽に出かけたり、舞台美術の理論研究を行ったりして、全部員のひたむきさは情熱の産物であり、高校演劇の水準を遥かに越えた秀作だった。二十五年、共学が実施された年は『現実』『二十歳』『勝利者と敗北者』『第一の世界』『人生の屋根』『世界の末日』『国境の夜』の七本を発表するという充実ぶりを見せた。」(北見北斗高校『四十周年記念誌』より)似内先生の略歴は、古い名士録によれば明治37年2月20日「岩手県綿貫郡八幡村に生まれ、昭和8年3月早大高等師範部国語漢文科卒、同9年5月中央高等普通学校教員、同15年8月朝鮮大邱公立商業学校教員、同21年3月庁立北見中学校教諭」とあります。
 これは略歴からの推測ですが、「自由の空気」が多少残っていた大正、昭和初期が先生の青春時代であったわけで、当然その頃隆盛だった築地新劇場など新劇運動にも触れたことでしょう。それが戦後すぐに演劇を指導される基礎になっていたのではないでしょうか。
 昭和25年4月、似内先生は高校再編成による職員交流で北見柏陽高校に異動、柏陽高校演劇部顧問として演劇指導に当たっておられました。その当時の部員に扇谷治男氏がおりました。その後、先生は教頭になられて演劇部顧問を野島繁夫先生に引き継ぎ、昭和33年6月、留辺蘂高校長として転出され、昭和39年10月赤平高校長で退職されました。
 昭和30年頃、柏陽演劇部にいたのが、扇谷国男氏(現劇団河童代表)や、現在、女満別町教育長である鈴木武昭氏でありました。
 北見北斗・北見柏陽の両演劇部は、昭和25年から毎年開催されている全道高校演劇コンクールに地区代表をかけて競いあい、実力をつけていきました。
 このように似内先生が北見の演劇発展に果たしたご功績は大変大きい、と調査しながら思いました。
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◇劇団どんぐり
 柏陽高校演劇部OB達によって、昭和33年(1958)9月柏陽高校落成記念公演の後に創られたのが劇団『人間座』で、後に劇団『どんぐり』となりました。
北見市文化祭/演劇と舞踊表紙 私が見た河童関係の資料では最初から『どんぐり』と名乗っていたことになっていたのですが、2月に寄贈頂いた島田久氏の資料の中に、昭和33年11月3日、北見市公民館で開催された『北見市文化祭/演劇と舞踊』のプログラムがあり、『人間座』が「花妖」(柳原正幸作、生月均演出)を公演と記載されていました。そこで経過を知る扇谷国男氏に確認したところ、学生であった生月氏が帰省した時に、柏陽演劇部OBに呼びかけて落成記念に「花妖」を公演した後、文化祭に参加するに際して急きょ『人間座』と名乗ったそうです。
 これも、私の推測ですが、最初は『河童』を越える意味で『人間』としたのでしょうが、公演後は「どんぐりの背比べ」と言ったところで『どんぐり』に落ち着いたのでしょう。
 その後、団長は扇谷国男氏、団員は新井充、布施英彦、寺沢亜紀子さんなどで、公演作品は、昭和34年「表彰」(大野哲哉作、新井充演出)、昭和35・36年「夕鶴」(木下順二作、扇谷国男演出)、北見文化祭などで発表していました。
 『劇団河童四十年の歩み』に、「そもそも、『どんぐり』は『河童』に触発されて誕生したサークルである。『河童』とて所詮アマチュアの集まりに過ぎなかったのだが、若い『どんぐり』の面々には一段高い演劇集団という印象が強かったようである。しかも、重要なことに、『河童』は旧制北見中学や北斗高校出身者が中心になっているという事情があった。
新制高校となり、学区制が敷かれ、否応なく柏陽高校出身となった『どんぐり』の団員には、『わが道』をという意識も強かったのである。『河童』が自分たちの訴えたい芝居を上演していったのに対して、『どんぐり』は観客が喜ぶ芝居を目指すことでカラーの違いを示そうとしたようである。」と書かれていることも事実でしょう。

 《中庭だより》 
☆米田早苗氏の奥様、米田孝子様から、ニュース42号の上段にあるNHK放送劇団の「土田寿美子」は「上田」の間違いではないかとのご指摘を頂きましたので、名簿を調べたところ「上田」が正しいことがわかりました。これは河童二十年誌の校正ミスによるものでした。引用する場合も気をつけなくては、と思ったしだいです。また、奥様からご主人の自分史『庶民家族の百年』とお写真をお借りしました。自分史はホスピスで仕上げられたそうですが、暗さのない落ち着いた筆致で感服いたしました。

 

 
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