ヌプンケシ41号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.41
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平成15年2月1日発行

訂正のお願い〜『愛と死の戯れ』は『愛と死との戯れ』に
 ニュース39号で掲載したロマン・ロランの題名訳は『愛と死との戯れ』が正しいと菅原政雄先生からご指摘をうけました。筆者の思い込みで「と」が抜けて『愛と死の戯れ』と書いてしまいました。ここに慎んで不明をお詫びし、『愛と死との戯れ』に訂正をお願いします。
 なお、版下と当市ホームページに掲載したニュースは1月20日に訂正させて頂きました。

◎北見の芝居ことはじめ(4)
 敗戦後に盛んだった職場演劇など文化活動も、占領政策が「民主化から反共へ」転換し「逆コース」といわれた時期、金田明夫氏が『遠くを見つめて歩いた日日/劇団河童二十年のあゆみ』(1976刊)に書かれたものによれば文化工作隊的な「トランク座」の活動は一部あったものの、朝鮮戦争(1950)前後のレッドパージ、政治・労働運動の分裂などで、衰退していきました。
 再び文化活動が職場から地域から動きを見せるのは、社会全体が経済的に落ち着きはじめた昭和30年(1955)前後からでした。その頃、北見の地元劇団『河童』が誕生するのです。
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◇河童会〜文芸同人誌『河童』〜劇団河童
 記念誌『劇団河童三十年のあゆみ/限りなき浪漫を求めて』(1986刊)に、創立メンバー、米田早苗さんが「河童」誕生当時の経過を記されています。
 「『河童会誕生の日』という色紙が出て参りました。菅原(隆治—引用者)先生のお宅で、昭和二十二年七月三日。戦時中の昭和17年、北見中央小学校を卒業した悪童連中の集まりで、夜を徹して酒を酌み交し、青くさい人生観を語り合っていたのでした。ミリタリズムから一転してデモクラシーの世に放り出された戸惑い。がんじがらめの束縛から、したいことは何でも自由という風潮に、自分自身をどう位置づけたら良いのか判らなかった世代でした。/河童会の記録帳も出てきて、和綴で、ところどころ菅原先生が、集まりの模様を毛筆でスケッチしてあり、悪童達の寄せ書きは昭和三十年一月十五日まで続いて居ります。その終わりの頁に『河童とは人間以前である。河童の憧れは常に人間である。河童の命はその意欲である』と結んであり、七・八年かかってこの平凡な原点をみつけたようです。/そのあと『河童大学』(河童文学か−引用者)が創設されます。旧制北見中学校第二十二回卒業生の有志で、昭和二十三年から出していた同人誌『裸心』の人達も一緒になって、『河童』創刊号が昭和三十年五月十五日に発行され、(中略)『四号』の昭和三十一年四月二十五日で終わっています。(後略)/そして『劇団河童』が発足するのですが、NH放送劇団や、北斗高校演劇部の方々が主力となって、昭和三十一年十一月三日、昔の柏陽高校(現、藤高の位置にあった−引用者)で第一回公演がもたれました。(後略)」
 このように戦後、菅原隆治先生を囲む会と発足した河童会の中で成長した青年達が、文化活動をはじめ、同人誌『河童』の発刊、劇団『河童』へと発展していった様子が伺えます。
 この河童会の活動に刺激を与えたのが、島田久氏でした。『劇団河童三十年のあゆみ』に菅原隆治先生が次のように書かれています。「劇団河童の創始者である島田久君が、北陸銀行の富山
支店から北見支店に転勤してきたのは昭和二十八、九年である。(後略)/北見に帰ってきた島田君は、早速この会合に飛びこんできた。当時の私は、児童放送劇団をつくったり、KPのラジオドラマを書いていたことから、島田、米田早苗君等と、これからの演劇を語りあった。島田君の富山時代はサークルをつくって発表もしていたためか、論は非常に組織立っていて、大いに魅了された。/間もなく、雑誌『河童』が誕生した。文字通りの三号雑誌で、三号で終刊となったが、島田君、米田君達は劇団をつくるべく走り出し、私は責任者ということであった。」(ここにある三号雑誌というのは、先生の記憶ちがいと思われます。—引用者)
 さて、この「河童」の名の由来は、青年達の顧問格であった菅原隆治先生が盛んに河童の絵を書いたことや、先生の頭部の状態からきているそうです。教員であった菅原先生は、大通西4丁目の嵩(だけ)病院長宅だった建物を借りて自宅とされ、その2階がこまどり会と菅原童画塾共用のアトリエで、そこを教え子達のサロンとして開放されていたようです。
◇菅原隆治先生のこと

41-sugawara 菅原隆治先生のことを簡単に紹介しておきましょう。菅原先生は大正8年(1919)生まれ、野付牛中学を昭和12年(1937)3月に卒業。その間、北見美術界の育ての親とも言うべき高橋俊雄先生に絵を習いました。札幌師範卒業後、昭和15年(市史では14年とある)、鷲見憲治、香川軍男、原義行氏と菅原先生の4名で美術団体、凍影社を設立。また、戦前の文化グループ「天才クラブ」の有力なメンバーでもあり、一説には同クラブの名づけ親でもあるといわれています。
 鷲見先生は野付牛中学では菅原先生の1年先輩でしたが、家業を1年手伝ってから札幌師範に入学したため、同学年になったそうです。ある人から聞いた話では、軍事教練があると菅原先生が迫真の演技で倒れ、それを鷲見先生が介抱するふりをして、二人して隊列を離脱。サボって写生に出かけたこともあったそうです。(戦後、北見新劇研究会で菅原先生が役者をやった素地はこんな学生時代にあったのでしょうか。)師範卒業後、菅原先生が中央校へ、鷲見先生は西校へ配置されます。前記のとおり、河童同人はこの中央校の教え子が中心になったのです。
 戦後、菅原先生は童画指導に積極的に取り組まれます。
 ここに、プランゲ文庫研究家、谷暎子先生に頂いた昭和21年4月発行の北海道教職員組合北見支部内 児童文化協会機関誌『北見の子ども』創刊号のコピーがありますが、その紙面を見ると「童画について」特集が組まれています。高橋俊雄先生が「何の為の文化運動か」という巻頭言を書かれ、鷲見先生が西校を通じて収集した生後半年〜7才未満の子ども600名の絵の調査結果概要を「幼児の絵に就いて」とレポートされています。菅原先生は同年4月23〜25日、商工経済会で開催される「北見の童画展について」、「兎に角私達は、この可愛い子ども達に何とかして日本の良い文化と、世界の良い文化を教へ、世界中の人々が考へも及ばなかった立派な国を造って貰ひ度いのです。」と思いを書かれています。
 その「思い」を胸に、六・三制施行後、東陵中学校に移り、その後網走管内を転勤され、最後
41-suzuranは興部中学校長で退職され、平成10年(1998)5月15日にお亡くなりになる最晩年まで絵画指導をされておりました。

 《中庭だより》 
☆今回調べて感じたのは、菅原隆治先生がこれほど色々なお仕事をなさり、子ども達、青年達を暖かく見守ってこられたのに、その功績がまとまって記録されていないことで、何らかの形で顕彰しておく必要性を感じました。
☆また、同人誌『河童』は市史でも昭和29年創刊となっていたのが、米田早苗さんの文章で昭和30年創刊、四号まで発行されていることが確認できました。その米田さん(昭和4年7月19日生)も平成9年4月10日にお亡くなりになっていました。ご遺族のお話では貴重な資料はご本人が引越しの時、捨てたそうです。誠に残念です。
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