ヌプンケシ44号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.44
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平成15年3月15日発行

44-kato◎北見の芝居ことはじめ(7)
◇劇団『河童』と劇団『どんぐり』の合流
 
河童は『三角帽子』以降、昭和32年(1957)『結婚の申込み』『秋の歌』、昭和33年『海抜3200米』、昭和34年『シガマの嫁コ』、昭和35年『寒鴨』『華々しき一族』と公演を続けていましたが、昭和36年春には島田久氏が扇谷治男氏に後を託して転出するなど、中心団員が家庭や仕事の都合で次々と欠けていき、その年は公演を打てませんでした。扇谷治男氏自身も、当時、文化座に属していた外山高士氏から入団を勧められ、父親の反対でプロの役者となるべきか、悩んでいた時期でもありました。
 そこで扇谷治男氏はそれまで胸中に温めていた堀田清美・作『島』を、弟である国男氏が主宰する『どんぐり』と合同公演することで、『河童』解散の危機を打開しようとしました。この昭和37年(1962)8月の公演を成功させてから、扇谷治男氏は父親の許しを貰って札幌に転出、『NHK札幌放送劇団』に籍をおいて、プロへの第一歩踏み出しました。
 昭和38年も宮本研・作『五月』を合同公演した後、『河童』と『どんぐり』の合流が話しあわれ、昭和40年(1965)4月に『河童』として存続が決定したのでした。
◇河童四十周年まで
 
昭和43年6月、河童として初の創作劇『凍土』を公演しました。書いたのは扇谷国男氏の義兄にあたる石上慎(本名・石原敬三)氏で、以後、河童の座付作家として地域に根付いた作品を提供されています。昭和51年(1976)7月、創立20周年記念作品である『御本山農場』も石上氏の筆による創作劇でした。この年、劇団の経緯を記録した労作、20周年記念誌『遠くをみつめて歩いた日々—劇団二十年の歩み』も刊行されました。
 昭和53年(1978)9月、第8回北海道演劇祭・第4回ホーツク演劇祭を北見市で開催、道内外に河童の存在を強くアピールしました。昭和61年(1986)には、創立30周年を迎え、記念誌『—劇団河童三十年のあゆみ—限りなき浪漫を求めて』を刊行、大掛かりなセットで『アンネの日記』を記念公演しています。
 平成8年には創立40周年となり、「徳田球一要請問題」で自殺した北見出身の哲学者、菅季治氏をモデルに木下順二が書いた『蛙昇天』を公演。記念誌『地域と共にこれからも—劇団河童四十年の歩み—』も刊行され、しっかりと活動が記録されています。
俳優 外山高士氏写真◇俳 優 外山高士氏
 さて、前述の外山高士氏はご存じのとおり北見出身のプロの役者さんです。外山氏は昭和5年(1930)9月3日生まれ、東京が空襲されはじめた昭和19年、父である外山光郎氏の妹がいた北見市
へ家族と共に疎開、北見中学校(現北見北斗高校)二年に編入されました。同期である藤原和夫先生が書かれた「北斗 いま むかし」によれば、この戦争末期で援農や勤労動員に明け暮れてい
た時代から「将来俺は俳優になる」と言っていたそうです。
 外山氏は、昭和22年、旧制中学4年を修了して上京し、昭和23年拓殖大学に入学、昭和27年3月、商学部貿易学科を卒業されました。昭和27年5月、劇団『文化座』に入団。看板役者として活躍され、昭和45年8月に退団されています。外山氏が『文化座』へ入団されたのは、多分その頃の劇団代表、佐々木隆(1909〜67)が拓大の先輩であったからでしょう。
 『文化座』は、昭和17年、井上演劇道場のメンバーだった佐々木隆、鈴木光枝、山村聡らによって結成されました。後に佐々木隆と鈴木光枝は結婚し、現劇団代表である佐々木愛が生まれました。劇団の古典としては、三好十郎・作『おりき』、山代巴・作『荷車の歌』、長塚節・作『土』があります。また、水上勉・作『越後つついし親不知』、山崎朋子作『サンダカン八番娼館』、最近では『青春デンデケデケデケ』なども取り上げています。軽妙な老婆役の鈴木光枝、気丈な女性役が多い佐々木愛にはそれぞれ根強いファンがいます。
 外山氏の初出演は舞台が昭和28年の『陽気な地獄』で、映画は昭和30年東映映画『たそがれ酒場』だったそうです。テレビでは昭和31年にNTV『鞍馬天狗』で鞍馬天狗を演じています。映画にテレビにと、数多くの作品に出演され、アニメでは『ジャングル大帝』『サスケ』など、外国映画の吹き替えにも声優として活躍されています。最近は商業演劇の舞台に立たれることが中心のようですが、ますますのご活躍を期待しております。
◇扇谷治男氏、その後
扇谷治男氏写真 札幌へ転出されてから、扇谷治男氏は声優、俳優としてラジオ、テレビドラマ、CMで活躍されていました。たとえば遠近両用メガネのテレビCMでは(ご記憶の方もいるのではないでしょうか)、公園のベンチに腰掛け、新聞を見ていたメガネの中年男性が階段を上る若い女性の後姿を見上げ、その女性に振り返られて慌てて目線をはずすといったシーンがありましたが、その男性役が扇谷氏だったのです。
 また、札幌で劇団ノルテを主宰し、昭和51年(1976)7月に『啄木〜雪あかり慕情』で旗揚げ公演をしました。
 「演劇札幌座会に加わって演劇創造の研究と推進に力を尽くし、近年は、札幌座会会員として北海道演劇財団設立期成会(平成8年3月、正式に設立)の幹事の任にあった。/しかし、病気療養のため幹事としての活動ままならず、1996(平成8)年2月1日、志半ばにしてついに不帰の客となった。享年62歳。北海道演劇財団、北海道演劇界にとって、まさにこれからという時の惜しまれる死であった。」(『高栄文学』30号より)扇谷氏は、昭和8年(1933)3月生まれですから、まだまだ活躍できる年齢でしたのに、もったいないことでした。その死から5年後の、平成13年(2001)2月25日、座席100席の小劇場「扇谷記念スタジオ」が札幌市中央区のマンション地下に誕生しました。同年2月21日付の北海道新聞に「このスペースはもともと小樽市の企業が倉庫として所有していたが、北海道演劇財団(坂野上明理事長)に寄贈。さらにコンサートや劇場の誘致に尽力し、1996年に死去した俳優扇谷治男さんの遺族が私財提供を申し出たことから小劇場づくりが具体化した。改修費は約2千8百万円。/道も補助事業の対象としている『地域創造アトリエ』になると判断、改修費の半額を負担する。所有、運営は同財団が担当する。」と記されています。
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 戦後、北見放送劇団を振り出しに、北海道演劇と共に歩み、死んだ後も小劇場に名を遺した北見出身の演劇人がいたことを、北見市民は記憶されても良いでしょう。

 《中庭だより》 
☆3月3日、似内盛蔵氏のご長男、紀之様より当職にお父様の履歴書とお写真が届きました。盛蔵氏は晩年までお元気で、第一銀行と日本工業倶楽部が後援する渋沢青淵記念財団竜門社に勤務され、月刊誌『青淵』の編集・発行人を73歳までされていたそうです。北見の経済界等に功績のあった似内哲郎氏は末弟だそうで、頂いたお写真を見るとお顔が確かに哲郎氏に似ておられ、ご兄弟であることがわかります。貴重な資料提供ありがとうございました。
☆島田久氏から頂いた資料の内、昭和23年発行で劣化した同人誌『らしん』1・2号を許可を得て複製しましたが、当時の青年の人生に対する真摯な考え方に触れた気がいたしました。

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